マタイ5:17 わたしがトラー=モーセの五書や預言者を廃する
ためにきたと思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも
破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も
小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまた
そう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義がトラー学者や
パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、
はいることはできない。
マタイ5章17節を取って、ジーザスはモーセの五書を破棄、
終了させた証拠であるとクリスチャンの世界では解説されています。
言語の意味する所と、この17節から20節の内容を読んだら、
その読み込みが書いてある内容にマッチしていないことは明らかに理解出来るはずであるのに、異邦人クリスチャンの世界で
語られている主流な教えは全てがモーセの五書終わり!と言う
解説なのです。よくよく読んで考えてみたらどうしてそんな読み込みが出来るのかその方が不思議な事なのです。
そんな事聖書のどこにも、このマタイ5章の中も書かれていないからです。
しかも19節でイエシュアが語っているのは、モーセの五書に
書かれている戒め=ミツヴォット、ギリシャ語ではエントロンと
訳されている、神の教え=言葉=その1つでも破り=無効にする破壊する、帳消しにする、そして同様に神の言葉のどの一つでも無効、破壊、帳消しにする様に教える人は、天国で最も小さい=神の前に羽の様に軽い存在として見なされると書かれています。
そして、神の教え=トラーを行い、トラーを教える人は天の国で
最も偉大な者と呼ばれる=神が創造された通りにぴったりな価値
通りの存在であると書いてあります。
呪いと訳されているヘブライ語の言葉は、神の目に最も意味の
価値の無い軽い存在になると言う意味です。その言葉に照らし
合わせても、神が人類に伝えている教えを無効にせよ!破棄せよ!生きる必要がない!などと教える教えがどれほど神の目に
無効、無用、無意味、無価値であるのか普通に理解できるはず
です。
神=言葉=トラー=イエシュアであるのに、神を愛すると言いながら、どうして神ご自身であり、神の深いところにある考えを
人間に伝えている神の言葉=トラー=神ご自身の思索、考えに
敵対せよと言う教えを支持し、神の言葉を破棄する事こそが
恵の生き方の時代にふさわしい、正義である!と主張している事自体が聖書とは全く辻褄合わない、変だろうと気が付かないと
ならないのです。神の言葉は永遠に固くたち永遠不変!と言う
聖書に書かれている事実に盲目であるからです。聖書にはそう
書いてあるのにどうしてその通りに読まない様に教えられているのだろう?と単純な疑問を持つべきなのです。
神の伝える警告とは全く真逆を教えられ信じているのです。
しかも福音書以降には新しい教えなど1つも書かれてなどおらず
100%モーセの五書しか書かれていない事実が全く見えない
理由は元に書いてある意味を学ばないで、異邦人解釈の教えだけを聞き続けている=2000年前に初めて新しい教え、完全なる救い、新しいパワフルな聖霊が降りてきて与えられたと誤解しているからです。
トラー、預言書、諸書に全てが書かれていて、福音書以降は
タナックの短い抜粋の解説でしかない事実も見えていないのです。
だから福音書以降は聖書のたったの30%。最初の70%が全てだからです。神の言葉=教えの完成形はモーセの五書なのです。
そこに人の生きる全てが書かれており、罪の詳細が全部書かれているのです。修復の仕方、イエシュアがされた業の意味全てが
書かれているのです。福音書以降には罪が何かの詳細は書かれていません。つまりモーセの五書を知らなければ、神の目に何が
ズレ=罪なのか分からないままになると言う事実に気が付けば
良いのです。そして聖書の全ての土台=根拠はモーセの五書!
これが土台、柱であるのです。
聖書の最後の30%は、最初の70%の短い短い解説、使徒達が書いたコメンタリーでしか無いのです。
新しい別の教えなど1つも書いてないのです。
どうして、このマタイ5章の箇所がモーセの五書を破棄した教えをイエシュアがしているなどと言うトンデモなく飛躍して外れた読み込みを異邦人の世界ではしているのか?それは、反モーセの五書、反ユダヤ思想が根底にあり、その思想で聖書を勝手に読み込み文脈や言語の意味から逸脱し解説している教えしか流通していないからなのです。
しかも、翻訳聖書からだけ読むことしか普通はしないのです。
原典に何が書かれているのか、じっくり学ばないとならない。
普通の人はそんな事するのは大変ですから、教師が聖書を書かれている通りの意味で学び、知らないとならないのです。
そして、ユダヤ人の世界にもズレて歪んだ思想、カバラ神秘主義
など、勝手な読み込みをする教えもたくさんあるのですから、
本当に注意して聖書に書いてある意味通りだけを捉え、裏に隠された思想など探れと教える様な神秘主義は危険です。書かれている意味を逸脱して自分が感じることを人に伝えてしまいます。
それは異教徒、禅問答の世界みたいです。
神はそんなに複雑な事を人に要求などしていないのです。
ストレート、まっすぐな真実を伝えているのです。
神は人に真実を隠しているのではなく、神が伝える真実に個人個人が、神の言葉からどれほど気が付いているのか、いないのか
その違いだけなのです。
異邦人の神学校では、教師が神の言葉は永遠不変と信じていない人も大勢いるのです。聖書が神の言葉であるとも信じていない
教師もいるのです。しかもモーセの五書否定ありきの教えが当然のごとく教えられているのです。彼らの考える思想哲学神学を
通して聖書に書いてある事実を曲げられて教えられてしまっているのが異邦人の世界での主流な教えなのです。
そして、その殆どがが原典聖書から学び続けると言う事をやらないままなのです。
クムランで死海文書が発見された時、1世紀当時のユダヤ人達、
エッセネ派の人達の間にあった”口頭トラー”これを”律法の行い”
とパウロが話しているそのものの書も一緒に発見されました。
それまではパウロの書簡に書かれているだけで”律法の行い”と
パウロが説明する内容が文書では存在していませんでした。
パウロが語る”律法の行い”=当時の人達が解説したトラーの解釈
口頭トラーが文書で発見されたのは大きな事なのです。
そして、福音書以降には、口頭トラーとトラーと平行に書かれ、時々混ぜられて語られていますから区別をつける必要があるのです。
伝統、人の言い伝えとイエシュアが話しているのは、この口頭
トラー、当時の人達が解釈していた理解していたトラーを
日々どう生きるのか?の解説なのです。
でもその解説が神の言葉の本質とはずれているから、イエシュアが伝統の教えのズレがトラーに書かれていることとどう違うのか?と正していたのです。
その内容がマタイ5章に書かれています。
このブログに書いてる事と同じで、一般に異邦人クリスチャンの世界で解説されている事とは異なることを発言し書けば、
違和感感じ、反発を感じるでしょう。
聞きなれない違う事を言っている異端と思う。
それがオリジナル聖書に書かれていると伝えても通じさえしないものです。伝統の言い伝えに染まっているからです。
だから1世紀当時、イエシュアが来られて、当時のラビ達が伝統で教えていた教えは、イエシュアが解説する事とは違う、
イエシュアの教えは違う!トラーを否定する教えだ!と考える人もいたのです。だからイエシュアとそれらの人達と議論になっている下りが書かれています。その様な箇所をクリスチャンの世界では、ジーザスがモーセの五書とは違う教えをしている
古い教え=モーセの五書を信じて生きている人を正しているなどと完全に誤解し、勝手に思い込んでいるのです。
父とわたしは一体=父の言葉をその通りに伝えに来た!
父の言葉=トラー=モーセの五書であることは1世紀当時の人は
皆理解していたのに、異邦人現代のクリスチャンはその様な基本
理解が全く抜けているので、ジーザスがモーセの五書とは違う
より優れた教えをしているのだなどと誤解しているのです。
当時のユダヤ人の大衆は、主にパリサイ派でした。
異邦人信者も100%ユダヤ人のシナゴグ=パリサイ派の会堂で
トラーをシャバットに聞いて学んでいたのです。
パリサイとトラー学者=律法学者と訳されていますが
トラー学者は、トラーを熟知した学者であり、そしてトラーを
手書きで書き記す訓練を受けていた学者たちです。
そして、トラー学者達はトラーを学ぶ高等教育を受けて、
さらに一番上に行く人=パウロの様な人達は、イスラエルの国の
重要機関=政府機関で働く職に就く人達でした。
だから、イスラエルの議会は、全て主にパリサイ派出身の学者であり、トラーを学んだ人が議会、法律を司る役職=裁判官の職に就いたのです。しかもそれだけではなく天文学やその他様々な
分野を学んでいたのです。だからパウロは割礼も施すことが出来たのです。現代でも訓練を受けている人は割礼を誕生日8日目に施しているのです。
トラーは100%、イスラエルの国家憲法でもあり、法律の書でもあり、法廷ではトラーに書かれた通りに裁判が行われたのです。トラーは六法全書、その中に罪の詳細、そして裁判の行われ方も詳しく書かれているからです。
モーセの五書=トラーは神から直接与えられた神の教えです。
そして口頭トラーとは、人間が解釈した神の言葉の解説なのです。主にトラーに書かれた事を実際にどう生きるか?の人が編み出した解説です。それが使徒15章にもある”割礼”=1世紀当時の改宗儀式異邦人がユダヤ人になる改宗儀式の事です。
ユダヤ人になる改宗儀式=割礼と言う名のつけられた儀式も
口頭トラーであり、モーセの五書に書かれた神の教えではないのです。
それを異邦人には負えないくびきを与えないと言う下りを読んで
書かれている内容や意味を全く理解しないまま、負えないくびき=モーセの五書を生きる事を異邦人には要求しないと決めたと
勝手な解釈を異邦人が編み出しているのです。
聖書に書いてある内容を知るには、正しく正確である様々な
情報が必要なのです。
はるか2000年以上前の古代の世界、しかもヘブライの世界の、ヘブライ語の神のトラーが当時の人達にどう語られ、実践されていたのか、その当時の世界の宗教的な世界の様々なしきたりや慣わしの情報が欠けると様々に憶測で聖書を読み込みし続けていくのです。
しかも異邦人の世界では、1世紀後半から出現した、
反モーセの五書、反ユダヤ思想ありきで全てが語られてしまった
のですから、その事実も知りながら聖書に書いてある意味通りに
まず知ると言う事をしない限り本当に聖書に書かれている真相は
見えないのです。書いてあっても見えない。
聖書に書いてない事を人の思想で塗り替えて勝手に解説しても
それは真実では無い、全く意味が無いのです。
続く