超えられない壁 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の定義で預言者とは何を語っている人達でしょう?

神の言葉の真理、そして神の言葉から離れる人達へ、契約の民の

生き方=契約=モーセの五書に書かれた人間の生き方=神が造られた神の性質に似せて造られたオリジナルの人間の生き方=

義とされた人達の事実の生き方に戻り生きよ!と言うものが、

預言者が送られた目的であり、預言者が語った言葉がそのまま

預言書として聖書になっています。預言書の未来預言は本の一部なのです。預言イコール未来預言が目的ではないからです。

 

ハヌカの祭りの背景にあった背教は、ユダヤ人の内部からも出て

内部腐敗し、そしてギリシャ帝国のエピファニスの策略〜全て

ヘレニズム化しギリシャの神々、ギリシャの思想哲学に全ての人が生きる様に同化する事を強要した事、これは今も再び始まっているのです。

歴史の中で常にワンワールドを目指し、神の言葉=モーセの五書に書かれた事を生きる事を抹消する力が、エデンの園から始まり同じ事が継続して歴史の中で繰り返されているのです。

 

聖書のどの箇所も100%モーセの五書を指して話している事実をクリスチャンの世界では認識されておらず、福音書以降には

創世記〜マラキ以上の優れた新しい教えが書かれていると誤解しているのです。聖書は最初から最後までずっと一貫して同じことしか書いてない!神聖、神の領域に人間が踏み込んで、神の言葉に勝手に手を付け、神の言葉を曲げていることをしているのに

聖書を読みながらどうして気が付かないのか?それは神の教え=契約や国籍から遠く離れて生きていた異邦人であるからである以外の理由は無いのです神の言葉が変化したなどと言う嘘を

聖書を知らないから、簡単に信じてしまっているのです。

先祖代々異教の神々の教えの文化、価値観、思想に生きる人達

神の教え=トラーなど聞いた事もない背景であれば、神の言葉を

それほど軽く取り扱ってもその重大な過失の度合いが死に

匹敵する、自分の命を損なうとさえも考えないのです。

エデンの園の出来事の警告を常に思い出して神の言葉に対して

向き合う、神の言葉に向き合う、受け取るとは直に神との関係

関わりの状態、性質に関わる事、神=言葉どちらも同じだからです。誰かと関係を持つ時、その人の言うことを信じない、又は

言われた通りに受け取ら無い、言われている意味を軽くあしらう、言われた通りに取り扱わないならその関係は偽物、隔たり、溝があるのです。相手に対する敬愛も尊敬も何も無い。

 

世界の問題の根は、神の教えから飛び出てそれぞれがそれぞれ

解釈の生き方をして歯止めが効かない状態になってしまった事です。最後にはその状態は終わり、イエシュアが世界を統治し、

そして全世界が神の教え=トラー=モーセの五書の契約の生き方に戻ると預言書には書いてあります。聖書に書いてあるのに

どうして書いてある意味通りに異邦人には通じないのか?それは人間の教えを固く信じる頭脳には、神の言葉が意味通りには通じていない、異邦人には関係無いとか終わったと信じているからです。

イイスラエルに又は諸外国に生きていた太古のユダヤ人達が、

トラー預言書から同じ様に”イエシュア”=救いを知り、受け取り信じて生きていた事実さえ聖書から読み取らないのは、イエシュアは2000年前まで誰にも知られていない、救い=イエシュアを古代の人は受けてないと考えるのは、トラー、預言書に書かれた事を書かれている通りに学ばないからと言うことが重大な原因なのです。聖書の最初から、イエシュアは語られていて、イエシュアは実際に何度も人に現れてもいる事が書かれているのです。

残りの民は、トラー、預言書からイエシュアを待望していたことがずっと書かれているのです。ユダヤ人なら救い主が現れ出ることを常に待望していた。イエシュアはトラー、預言書に書かれている、そして復活の命もすべてがトラーに書かれている。

 

福音は、救いは2つの道で与えられているのではないと書いてあります。救い、福音は最初から同じであり、どの時代にもどの人種でも同じであり、その道=イエシュアは1つ、二つ別種の性質ではない、2000年前に初めて救いが有効になったのでもない最初から最後まで同じなのです。この様な事実はモーセの五書、預言書をしっかり学ばないと見えない事なのです。

 

昨日もクリスチャンである友人が1コリント13章から愛に付いて、話していました。1コリント13章にあるパウロの語って

いる愛の内容はモーセの五書に書かれた”契約”の中にある愛の

事実を、短い言葉で語っているだけなのです。

新しい教え、優れた教え、トラー、預言書とは違う別の教えを

パウロがしていると考えるのは、聖書の最初の70%を読まない

学ばないからです。パウロが、使徒である、聖書と見なされる

書簡を書いていると言う事は、パウロが自分自信で宣言している通り、神のトラー=教え=インストラクション、=モーセの五書

を100%支持し、教え、生きていると言う事実があってのみ

成り立つ事であり、パウロがもしモーセの五書を否定するなら

パウロは聖霊を否定し、神ご自身を否定していると言う事に

なるのです。の教えに洗脳されて神の言葉が終了したなどと

言う教え、神の言葉に敵対する教えを本気で心底信じるならば、それは聖霊を否定し、神ご自身を否定している行為である事に

はっきり気が付かないと危険なのです。

 

ルカ16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とが

ある。それに聞くがよかろう』。

16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、

もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。

16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに

耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

イエシュアはこのたとえ話で何を話していると思いますか?

聖書に書かれている全ては、100%モーセの五書を支持し

モーセの五書から語っていると言う事実にだけ立って聖書を

読み直さないとならないのです。

福音書〜黙示録は、トラー、預言書の短い抜粋であり、使徒達が

語るトラー、預言書の短いコメンタリーである事実に気が付いて

読む必要があります。福音書以降には、神が定義する人間の生き方、罪の定義の詳細、救い、贖い、許し、解放、どの様に神の

前に修復するのか、人との関係の修復をするのかetc etcそれらの詳細は記載されていません。その理由は、聖書の最初に

人間が生きる必要な全てが記載されているからです。

モーセの五書を知っていると言う事実に基づき、ユダヤ人=

失われたイスラエルの羊にまず最初に来られて話しているからです。

モーセの五書、預言書に書かれている事に耳を傾けない

聞こうともしないなら、何を言ってもやっても無駄!と書いて

ある通り、本当にその通りなのです。これを異邦人の世界では

神の言葉を無視するのが恵の生き方だと奨励する、モーセの五書預言書を無視する教えをする事、それはイエシュアが教えていることに全く反しているのです。

 

モーセの五書を否定するならば、いくら話しても通じない。

神の言葉=教えは神が人に伝えている通り、永遠不変であり、

神が真実なお方で嘘偽りは言わないと信じていない人たちに

向けて語っても、受け入れないでしょうと言う事なのです。

 

1世紀後半から既にモーセの五書を否定する教えを異邦人の教師達、西洋教父達、ローマ教を作った人達が創作したと言う事実を

全ての人が知り、神の解説する人の生きる詳細の定義の全ては

人がいかに曲げて解説しようとも変化しない。神の言葉や神が

創造された創造物は歴史の途中で変化などしないと言う事を

神の言葉から事実を直接知れは良いのです。

 

神の言葉を否定すれば必ず人は都合の良い解説を編み出しますし、2000年近く語り継がれたトラーを否定する教えを恵の

時代の教えなどと信じれば、それこそどんな神学も、どんな思想も編み出せますし、それらは他の異教の宗教の教えと性質が

似ているものになってしまっているのです。

 

気を付けなくてはならない事はただ一つ!神の言葉をどの度合いでもどの箇所でも否定する教えは、聖霊に敵対する罪!であり

神から出たものではない!と言う事実に目覚めれば良いのです。

そうすれば、聖書に書かれていない教えは神から出たものではなく、聖書を曲げて解説する教えも神から出たものではなく

人から出たものであり、もしくはあのエデンの園にいた動物の代弁を人がしているのであると言う事に気が付けるはずなのです。

 

聖書を教える多く教師、神学校で教える教師達でさえ、聖書は

100%神の言葉だと信じていない人達が教壇に立ち未来の

リーダーになる人達=何も知らない人達に神の言葉を教える人になる人達に、神の言葉の性質を歪めた教えをしているのです。

重大問題なのです。神の言葉をどの部分でも否定する教えをする人達から聖書の解説を聞いても、その教えはどこかで神の真実が歪められ、封印され、曲がってしまうのです。ある部分は真実を語るけれど、神の真理の土台=モーセの五書を揺るがす教えは、神の教えでは無い、偽物の教えなのです。

神の言葉をどの部分でも否定する、否定しなくても書いてある

通りには取り扱わない人たちに学べばその様な思想に必ず影響

されてしまうのです。私も長い年月影響されて神の言葉を書いてある通りには読んでいないこと、こんな単純な事実に気が付く事さえも出来ませんでした。あなたがもし異邦人の世界で語られる教えモーセの五書は終わり!福音書以降が本物の福音で新しい

最新の教えで、新しい優れた霊が与えられていると考えているなら、それは聖書ではなく、異教徒背景の異邦人の思想=神学=

教えに洗脳されてしまっている証拠なのです。聖書には神の言葉を神の言葉で否定する様な分裂症的な矛盾する事、その様な矛盾を神がするなどとは書かれてなどいないのです。自分で聖書を

しっかり読まないから、曲げられた解説や翻訳、特にパウロの

書簡を誤解して読んでいるから事実が見えないのです。

 

残念ながら、異邦人の信仰の世界は、1世紀後半からトラーを

継承し続けたパウロや使徒達の様なユダヤ人と完全決裂し、

パウロの様な正しく聖書を解説出来る知識のある教師に教えられたり、質問を尋ねる機会も完全になくなり、ヘレニズム思想を

通して聖書を否定し、歪めた教えをする人達を教師として立て、その結果中世は聖書から逸脱した教えが数々無数に編み出され

存在してしまった。個人で聖書を読む機会がゼロの時代であった人達はその様な聖書とは全然関係ない教えを聖書として生きて

いたのが異邦人の世界の実情なのです。

今では聖書が手元にありますが、聖書に書かれた中身を書いて

ある通りには受け取らず、書いてある意味通りには解説されず、神の言葉が昇天以降終了したなどと言う思想=幻想を通して全てが語られてしまっているのです。不思議に思わないとならないのです。なぜ書いてある通りに受け取り、実際にイエシュアが生きた通りを今は何故生きないのか?と言う大矛盾。

その事実に個人的に気が付けたとしてもその先手引きがなければ

どう真実を発見し繋げていったら分からないのです。神の言葉を書いてある通りに正しく教えることの出来る教師は必要なのです。学校に行き何かを学ぶのはそれを教えることが出来る教師がいるからです。聖書も全く同じなのです。聖書に書いてある意味とは違うことを教えられたら真実から迷い出ます。

だから少しでも聖書に書かれた真実から聖書を読むと言う路線に

切り替えるために、聖書に書かれている内容をオリジナルから

学び、知り、正しい情報を伝える人達が増えて行けば良いのです。

 

 

 

 

続く