その2 ガラテヤ5章ー6章 パウロの書簡を知る手がかり 当時の文化背景を知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロが居た1世紀当時のユダヤ人の世界のダントツに特徴的な

第一に問題とされていた事とは、”イエシュア”を救い主として

信じるかと言う神学的な相違ではなくて”異邦人信者がユダヤ人の中に交わる事に関してが重大問題であったのです。その理由は異邦人達は”異教の神々に拝み、偶像崇拝、偶像を拝む事をする人達であるから当時のユダヤ人達は、異邦人とは全く交わっては

ならない、付き合ってはならない、家にも行くな、食事も共に

するなと言うユダヤ人の世界での掟、ラビ達が決めた決まり事が口頭トラーをユダヤ人は皆それを生きていたのです。

 

新しい異邦人イエシュア信者達が、ユダヤ人コミュニテイの中に

入りろうとするならば、異邦人である状態はユダヤ人の世界ではあり得ない、受け入れがたい事なのです。だから改宗儀式をして

完全にユダヤ人なり、異邦人の世界と決別せよ!と教えていたのです。これは異邦人には感覚的に分からない事なのです。

 

当時のユダヤ人の立場で、人間的に考えると分かります。

どうして、彼らユダヤ人は異邦人が汚れたものであると考えるのか、それは異邦人はイエシュアを信じながら神が汚れであると

するものが何か分からず、日常生活でそれらを実際にやっていた

そして今現在も継続してやっているからです。

彼らユダヤ人に取り、偶像礼拝、偶像を崇め、人間を聖人として崇め、異教の神々の神殿で汚れた動物を捧げたり、神の禁じて

いる汚れた動物を食する事、神の記念日を汚す事、これらは神が

禁じている事だから、神の教えを認識していない異邦人など

ユダヤ人の交わりには、足を踏み入れて関わって欲しく無いと

考えるのはある意味当然なのです。

イエシュアがもし、父の言葉=トラー=モーセの五書を否定し

神が伝える聖別を汚す事、神の記念日を汚し、神の禁じている事

を教えて自ら敢えてするなら、それは本物の救い主でも、

イスラエルの神でも無いのです。

 

ユダヤ人の会堂では、ユダヤ人でイエシュア信じるのは

意見の違い程度で、当時はさほど問題などにはならないのです。

今は全く違いますが。それは、ユダヤ人イエシュア信者達は、

基本的にトラー=モーセの五書に書かれた神の教えを、他の

イエシュアを救い主と認めていないユダヤ人信者と同じ様に理解し、同じ様にトラーを生きている人達であるから、ユダヤ人に

取り汚れた行為を持ち込む脅威にはならないからです。

その当時様々な派がありましたが、派=多少トラーに対する

生き方の上での解釈が違えど交わりはするし共存していたのです。

どうして1世紀当時のユダヤ人信者と、ユダヤ人イエシュア信者の間で亀裂が出来たしまったのか、それは、トラーを知らない

異邦人イエシュア信者が入り込んだ事で、彼ら異邦人イエシュア 信者に対する取り扱いに関しての意見が分かれて亀裂が出来て

行ったのです。イエシュアを知らないユダヤ人信者は、異教徒上がりの異邦人=改宗儀式をして異教徒の生活や文化から完全に

手を切らない限り受け入れがたいからです。

でもイエシュア信者のユダヤ人で、”救い”はイエシュアを通して信仰により与えられている事実をはっきりと知っている人は、

伝統の慣わし教えに従えば聖書と矛盾する事は理解していた人が居た事も事実です。それがジレンマになったのです。いや多くの人は、当時のユダヤ人の慣わしに逆らって生きる事に対して、

ものすごく抵抗があったのです。ペテロの例を見ても分かるのです。

使徒15章のエルサレム会議は、パリサイ派の中に異邦人イエシュア信者を入れる時に、最低限、汚れた行為をしない事で、交わりを認可した内容が15章の決議案です。

 

歴史の中の当時の背景、事情を知らないままパウロの書簡を

読んでも意味が見えてこない理由は、こうした事実を把握して

いない事、この様な時代背景の事情があった事、現代と1世紀では全く違う条件、背景であるからです。

現代、クリスチャン全てが、ユダヤ人会堂でユダヤ人から

ヘブライの書=トラーを学び教えられたり、イエシュアや使徒やパウロ達、1世紀の信者と同じ様にシャバットや祭りを祝ったり、トラーに書かれた生き方をるなんて事は普通していません。

それなのです。1世紀当時は今とは全く状況が違うのです。

西洋宗教と言う異邦人が作った神の教えを否定した教えなど当時

存在もしない、神のトラーを否定する様な人達などまだ居ない

それが聖書が書かれている時代の事実なのです。

 

異邦人イエシュア 信者も、ユダヤ人イエシュア信者も、当時は

パリサイ派が多数派でしたから、彼らの会堂に加えられていたのです。信じられない?と言いますか?それが事実なのです。

聖書の事実だけに戻って考えれば真実が見えてきます。

誰も西洋宗教=モーセの五書を否定した教えを支持する思想など

持ち合わせていないのが1世紀当時。いや1世紀後半からは既に何度も書いている通り、神の教え=トラー=モーセの五書を否定する教えを編み出した異邦人ヘレニズム思想の教師達が出現して来て、そして今に至るのです。その思想の根は、”人間至上義”なのです。だから、人間が永遠不変の神の言葉を堂々と否定しているのです。自分で真実の点と点だけ繋げて行けば、神の言葉を

否定する教えは、人間が作ったものであり神から出た教えなどではないと言う事実に目覚める事は簡単です。いや進化論と同じく長い年月嘘でも本当と信じているから、その嘘の呪縛から目覚めるのが難しいだけなのです。

ユダヤ人がユダヤ人イエシュア信者がパリサイ派の会堂に加わりトラーを聞いたり交わりをすることは何の問題も無かったのです。

その仕来り=口頭トラーに反した事をする事は、ペテロの様な

使徒であっても乗り越えられない、憚られるべき事である事が

書いてあるのです。

ペテロの意識を変える出来事が使徒11章での汚れた動物と

きよい動物が混じった天から降りてきた敷物の上に乗った

動物達の幻の意味なのです。

汚れた動物と混じったきよい動物=汚れているから屠れないと

考えていたペテロ。ペテロはその後コリネリオ=神を怖れる

異邦人の家に神から遣わされて、その家に滞在し異邦人と初めてクリアーな意識で食事をする事になるのです。

ガラテヤの最初の章にさかのぼりますが、そこに書かれている

意味、背景の事実を繋げていけばパウロの語る別の福音の意味、

パウロは100%トラーを支持していてトラーを否定した教えなどしていない事は明らかに分かると思います。

 

ガラテヤ 1:7 それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。

1:8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。

1:9 わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて

言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。

 1:10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

 

別の福音=ユダヤ人の中で、シナゴグに集う別のユダヤ人達から

イエシュア信者達を受け入れる事で非難の目で見られない様に

異邦人にユダヤ人となる改宗儀式を強いる事で、福音からずれた

事をしているけれど、それは同時に他のイエシュア信者では無い

ユダヤ人達の歓心を買う、認められるために、異邦人達を改宗儀式をさせる事にやっきになっていた事が書かれているのです。

 

もう一つの箇所でパウロがペテロの行為をたしなめた下りが

書いてあります。

 

ガラテヤ2:11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、

彼=ペテロに非難すべきことがあったので、わたしは面と

むかって彼をなじった。 

2:12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、

彼=ペテロは異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。

2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

2:14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを

見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、

ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人に

ユダヤ人のようになることをしいるのか」。

 

もし、ユダヤ人であり、ユダヤ人の世界の教えでは、

異邦人と交わりは禁じられているのに、ではなぜあなた〜ペテロは、異邦人達にあなたの教えにフォローする様に強いて、

自分の教えに一貫していないのにそう強要するのか?

私達はユダヤ人で、異邦人の様な罪人では無い。

パウロの答えは、異邦人もイエシュアによる信仰で同じ契約の民のメンバーを与えられたのである。

改宗儀式をして神の家族のメンバーになったのでは無い。

ユダヤ人でさえも、契約の民の正式な一員になったのは、

肉=生まれつきではなく、アヴラハムに与えられた神からの無償

の義を信仰で受け取って、契約の民の一員となったと言うのが

本当の事実でしょう。

肉的生まれだけで神の民に加えられたのでは無い。

全ては、同じ法則=神の与える無償のギフト=義とされている

事実を、ユダヤ人も異邦人も同じ方法=イエシュアを通して

受け取るだけ、それだけが神の民の一員となる唯一の方法であると言う事なのです。

ペテロの陥っていた事は、インフルエンサーと同じ意識であり

誰もいない所では異邦人と交わっていたけれど、ユダヤ人の前では異邦人イエシュア信者と交わらない=異邦人イエシュア信者を

正式な神の民と認めない様な振る舞いをしていた、これをパウロが指摘しているのです。

 

 

 

 

続く