ガラテヤ5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、
パウロの書簡を読む時に、他の古典書を読むのと同じく、
当時の文化、言葉、言語の意味、背景様々な要素を理解しない
まま、21世紀現代の異邦人の思想、異邦人の文化背景で
パウロが書いた書簡を、しかも翻訳の翻訳で読んでもそのまま
では意味不明な理解になってしまう内容が数々あるのです。
パウロがここで話している相手はガラテヤ人、3節には全ての人
とあります。男性も女性も含め、1世紀当時のラビ達が編み出した異邦人がユダヤ人になる”改宗儀式”=割礼をしようと考えて
いた人達にパウロが話しています。
パウロがここで話しているのは、改宗儀式をするならば、
トラーの全てを行う必要があるとはどう言う意味で言って
いるのでしょうか?
ここで覚えておかなくてはならない事は、パウロの時代も今も
ユダヤ人の世界では、モーセの五書と口頭トラーは同時に
ひっくるめて”トラー”と呼ばれていて、翻訳の世界ではそれを
”律法”と訳していますが、トラーイコールモーセの五書だけの話をパウロはしているのではないのです。
ユダヤ人の世界では、モーセの五書と口頭トラーは1つでセットと考えられているのです。
パウロの時代は、まだ”口頭トラー”は完成された形の教えでは
なくて、変化進化途上にあるものでした。
口頭トラーと言うものがなんであるのか?これは別の箇所で
書かなければならないほど、膨大な説明が必要なものです。
ざっと言うと太古から伝えられた神の言葉=その意味などを
賢人達が解説したものです。
長い歴史の中で伝えられて来た神の言葉をその意味を理解する
手掛かりになるものでもあるのですが、その中には同時に人が
作った教えも混ざっているのです。
イエシュアが当時のトラー学者と議論している中で、
”手を洗わないで食事をした”とイエシュアの弟子達が咎められていたり、シャバットに畑に入って落ち穂を拾って食べた咎められたり、そんな下りが福音書に書かれていますね。
それらは、トラーには無いラビ達解釈の教えなのです。
それらはラビ達の”口頭トラー”には存在していた教えなのです。
それらを、”言い伝え”とか、”律法の行い”とか、”自分たちの伝統の慣わしの教え”を優先して、神の言葉=教えを退けないがしろにしているとイエシュアが言われたのであり、モーセの五書を
イエシュアが否定している証拠が書かれているとそんな誤解された解説までされているのですが、事実に戻り聖書に書かれている事を正しく読み直す必要があるのです。イエシュアもパウロも
使徒、預言者全て100%モーセの五書を支持し、否定などする人など一人もいない!と言う事実に戻って聖書を読まない限り、聖書とはずれた人の編み出した教えを信じ続けて神の言葉を否定し、知らない間にイエシュアご自身を否定している、
敵対する教えに立ってしまいます。
パウロの書簡の中でも、トラーと口頭トラーの両方が話されて
いますから、区別して読む必要があります。文脈、内容を把握
すればパウロが話している内容を理解出来ます。
”手洗いの儀式”と言うトラーには無い教えなどの様に、
口頭トラーが、神の言葉=モーセの五書=トラーより優先されて
しまっている教えがあったのです。マルコ7:8
その様な背景を知って、もしガラテヤの異邦人が改宗儀式をするならば、モーセの五書と同時にラビ達の口頭トラーの両方に
忠実にならないとならないと要求されてしまうよと
パウロが言っているのです。どう言う事になるのか?
そうしたらどんな問題が発生すると思いますか?
神の教えに立てば矛盾が生じ、本当の葛藤、ジレンマが生じて
しまうのです。
なぜなら、口頭トラーには、改宗儀式をしたら、異邦人と縁を
切る事、完全に異邦人から切り離されて決裂する事を要求されるからです。
なぜなら異邦人、異邦人の家は汚れている、もし改宗儀式をして
ユダヤ人として生きる決意をするならば、口頭トラーを生きますと言う誓いを立てさせられてしまうからです。
改宗儀式をした暁には、異邦人と食事をしたりする事など
出来なくなってしまうのです。
その様な”決裂”は、メシアにある1つの家族としては、
苦悩になってしまうのです。何故なら、エペソ2章にある通り
イエシュアを通して2つのもの=ユダヤ人と異邦人は1つに
なった、隔ての壁をイエシュアが取り壊したからである!
この隔ての壁と言うものこそが、この別の福音を教えている人達の教え口頭トラーの中にある様な、トラーにはそぐわない教えを
生きよ!とされてしまうからです。
ユダヤ人のコミュニテイに受け入れられようとして、改宗儀式
をするならば、その事により神の教えに反する、隔ての壁と決裂がより一層深く大きくなってしまうジレンマが生じるのです。
メシアを通して救われた自覚のある異邦人は、同じ神の1つの
家族のメンバーとなり、その人達は同じ婚姻契約=シナイ山で
与えられた神の家族の家訓に生きる事に加えられたと言う事実があるからです。
しかも”食事を共にする”と言う行為は、まさに同じ契約に加えられた家族としてのコア=中心なる親しい行為であるのです。
ペテロが乗り越えなくてはならない意識は正にこれだったのです。汚れた動物ときよい動物が一緒くたに天から降りて来て
”屠りなさい”と神に言われる幻=夢をペテロが見た事件です。
この夢は、モーセの五書の食物規定を神が取り払ったなどと言う
偽物の解説がされていますが、そんな事は天地がひっくり返ってもあり得ない事なのです。使徒10:9ー28
この幻を見せられたのは、汚れた人達に交じる=異邦人の家に
行き、汚れた異邦人と共に食事をするなんて事はユダヤ人として
出来ない、あり得ない事であると口頭トラーを生きて来たペテロは当然のごとくそう考えていたのです。
それは、口頭トラーにある様に、汚れた異邦人=汚れた行為をし
汚れた動物を食する人達となど交われないと言う拭えない意識
があったからです。使徒15章も同じです。
汚れた行為をする異邦人達をユダヤ人の仲間として受け入れるには、ユダヤ人になる改宗儀式はしなくて良いから、とにかく必要最低限の神の教えに対する知識、トラーに書かれた汚れた行為の4つはしないで下さいとパリサイ派が提案した決議内容と
全く同じ事なのです。
異邦人は4つだけ神の教えを守れば、後はトラー=神の教えは
無視して良いのですなどと言う飛躍した解説がされていますが、
本当に書いてある内容を読み取らないので全く聖書から逸脱した
解説しかされなくなっているのです。
使徒15章のその箇所の後に、ちゃんと書いてあります。
”異邦人もシャバットのユダヤ人の会堂に来て、モーセの五書を
学ぶ事をしていけば、やがてトラーに書かれた神の教えを理解して行くだろうから、とりあえずは4つだけ守って”と書いてあるのです。最低限のエチケット、教えだけ把握すれば仲間に入れて
あげますと、寛容なパリサイ派の人々が譲歩しているのです。
クリスチャンの世界では、1世紀イエシュア、パウロが居た時代にキリスト教、カトリック、プロテスタントと言う異邦人だけの
グループが出現し、現代の様な宗教の世界が存在していたと誤解していると思いますが、聖書の中に登場するのは、ほぼ100%近くがユダヤ人のイエシュア信者であり、その中に、少数の異邦人が加えられていただけなのです。そして100%トラーを
生きていた!!!その事実しか存在しないのです。
1世紀当時の異邦人は、イエシュアを信じたら全て、
ユダヤ人の会堂=大衆はパリサイ派ですから、
それらの会堂に集うユダヤ人に加えられていただけなのです。
その中で、”その道”の人=ナザレ派と呼ばれていただけなのです。現代の信仰、神の言葉を否定する教え、宗教活動、儀式
宗教の記念日、そう言う事を一切帳消しにして1世紀の当時に
戻って、聖書の事実だけに基づいて考えて行けば、
聖書に書かれている真実が見えて来ます。
しかも、現代で語られている様な、モーセの五書を否定した
教えなど存在などしない、そんな考え、思想を持つ人も誰一人として居ない世界、1世紀後半に、異邦人達がローマ帝国の圧力の下、モーセの五書を否定した教えを編み出して行っただけなのです。異邦人が、ユダヤ人と同じく会堂に集い、トラーを学び、
トラーに書かれた生き方をするなら、重税=4000USD相当の
純金を支払う事を課せられ、払えなければ牢獄行き!だったのです。そうしたら、異邦人は何をしたか?と言うのは前にも書きましたが、モーセの五書を否定する版”ペテロ作戦”イエシュアを
否定したのと同じ事を異邦人はしたのです。
”私達異邦人は、あのユダヤ人達とは全く関係ありません。私達異邦人はモーセの五書に書かれた教えなど生きていません。
シャバットも第七日目に祝いません。ローマと同じ皇帝崇拝の日、太陽神その他神々の記念日=日曜日を尊重し大事にしています。割礼も授けない、汚れた動物でも異教の神々の祭壇に捧げられる動物でもなんでも食べています。”そう言う事を言い、同時に信仰宣言を行動に移し、ユダヤ人とは別であるとローマ帝国の
刑罰を逃れるために神の言葉を否定し裏切ったのです。
そして、2世紀〜3世紀の間で、ユダヤ人と異邦人は完全決裂し異邦人は独自の教えを編み出すギリシャローマ哲学者を教師と
して立てて、モーセの五書を否定し神の教えを様々に塗り変えて神の記念日も変えて、違う新宗教の土台を作り始め、それが継続して中世カトリック時代を経て、現代にもその根は根強く健在し継続しているのです。だから西洋宗教と呼ばれているのであり、ヘブライの世界の教えとは異なる理由は歴史の中で起きた、
異邦人が作った思想を土台とした信仰なのです。
神が神の言葉を否定した、終了したと言う教えは、
全て1世紀後半から出現した異邦人が編み出した教えなのです。
事実が分かれば、聖書に無い教えを聖書であると信じ続けているその謎が解けます。
3節に戻りますが、改宗儀式をするならトラーの全てを
生きなくてはならないとパウロが言っている意味は、
矛盾を指摘するためです。
なぜなら、改宗儀式をして別の福音を語る人たちの傘下に
入れば、同時にそれは神の教えを否定する行為をする事に
なるからです。改宗儀式をする、メシアにあり1つの家族に
なるのに、同じ契約に加えられたのに、同時に人の教えにより、1つの家族として生きれなくなる、異邦人世界と決裂した神の教えに反した事をしなければならなくなるよとパウロは言っているだけなのです。人の教えと神の教えの違い、矛盾に気が付きなさい!と言う事なのです。
そして、誰が神の契約に加えられた家族なのか?入っている
はみ出していると言う人間が考えた教えを言及しているのです。
真のイスラエルとして、メシアに在る事、それが神の定義する
本物のイスラエルの実態なのです。その事実を否定する事、
同じ契約に加えられた異邦人の家族と決裂する事、神の教えを
否定する事それは、イエシュアを否定する事なのです。
トラーにより義とされると言う教えは、ルターの宗教改革から
誤解されて解説されている内容でもあります。
このガラテヤの中に居た人達、別の福音を語る人達の中でさえ
トラーを完璧に生きたら神の前に義とされるなどと考えていた人などは誰一人として居ないのです。
パウロの時代は、イスラエルとは神の前に”義”とされている!
としか考えてない人達しか存在していないのです。
どう言う意味だと思いますか?これは異邦人に改宗儀式を
要求したユダヤ人達の考えが分かると思います。
ガラテヤ5:4に続く