ガラテヤ4:21−22  肉で獲得するアプローチと神の約束により信仰により得ることの違いの比較 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ4:21 律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。

わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。
 
パウロは正式な表現でトラーに対する論点を話しています。
ガラテヤの人々に対するパウロの熱心さ、情熱を表して
語っています。
パウロは3章で語った”2つの契約”、アヴラハムの契約と、
モーセの契約に対する内容に付いて再度話しています。
 
ミドラシュと言うユダヤ人の聖書解説のスタイルでパウロは
語り、アヴラハムに関する解説をしています。
アヴラハムを通して与えられた契約と、モーセを通して与えられたシナイ山の契約を、サラとハガルそれぞれになぞらえて
語っています。
 
これは”肉”による約束、それはパウロが論じていることに
ぴったり重なっています肉による手段での獲得=人の教えを
通して神の前に義とされる事を獲得しようとするアプローチの事です。ガラテヤに蔓延していた”別の福音”=義とされる、救い、
神の国の一員と認められるために、改宗儀式をする=割礼と名付けられたラビ達が編み出した儀式をすると言う聖書とは異なる
教えが蔓延していた事を忘れないで読み続ければみえます。
 
21節の冒頭で、”トラーの下にある事を願う”と言う事を書いています。それは神の教え=トラーを本当の意味で聞いてない人達に対してパウロは少し皮肉めいて話しています。
もしくは、パウロがガラテヤ人らが聞くべき内容、理解すべき
状態で聞いてない、誤解している、神の教えをきちんと聞くことからずれていると言う意味で話しています。
 
ここで、トラーの下と書いてあるのは、ラビが発明した
”改宗儀式”を通る事と同じであると言っています。
義とされるために、ユダヤ人になるための”改宗儀式”をしようとしているのならば、その意識は、別の福音を語るインフルエンサーの影響を受け、彼らの考え通りにはまってしまっているので、
神の真意に留まりたいと願いながら、神の意図とはずれた意識でいると言うことを言っているのです。
”律法の下”と言う意味は、神の教え=モーセの五書の教えの
下にあることは悪いと言う意味や、トラーの呪い、責めの下に
あると言う意味でもないのです。
 
この意味は、この場合はモーセの五書ではなく、ラビ達の
トラーの解釈=律法の行い=口頭トラーを生きることで
契約の民に加わることが出来ると言う教え=別の福音の事を
話しているのです。
 
パウロは、モーセの五書=トラーは、別の福音=インフルエンサーが語る教えなどは、モーセの五書の中には書かれていない、
神がそんな教えをサポートなどしていないと言うことを
ガラテヤ人に確信させるために話しているのです。
 
もしガラテヤ人が、神の前に正しく立つべくユダヤ人になる
”改宗儀式”を頼り信頼するならば、その行為は、神の目には
神の教えの下には、責むべき行為となる!と言っているのです。
自分の行いで”義”とされる事を獲得することこそ、恵みにより、信仰により受け取るだけの事実に反した行動をするそのものだからです。
しかし、恵みにより一方的に無償で与えられた”義”とされている事実は信仰によってのみ受け取る事が出来る!それは自分の手柄や行動で獲得など出来ない!そして誤解してはならないのは、
義とされている事実を受け取ったと言う事は、神との関係の世界=神が提示する婚姻契約の中に加えられ、神の家族となり、
神の似姿に造られた性質通りを生きる大家族の一員になったと
言う意味である事実を理解しないなら、神が伝える神の家族の
性質を生きることが、神のみ旨であると言うことを決して
理解出来ないままになるのです。
 
神のみ旨とは神の教え通り=神に造られた人間の性質そのもの
通りを生きることです。人の性質、神の家族が生きる詳細の全てが書かれているものがモーセの五書である事実をはっきり捉え、自覚し、知らないとならないのです。
 
福音書〜黙示録には、救われた人は実際日々の中で何をどう生きるかの詳細は書いてないのです。福音書以降は、トラーに関する抜粋、短いコメンタリーしか書かれていないからです。
なぜだと思いますか?それはモーセの五書を土台に語り、モーセの五書を理解しているイスラエルの失われた羊の元にだけ遣わされたと説明したイエシュアの言葉の中にも答えがあります。
 
聖書は、モーセの五書を理解している前提の読者に向けて
書かれているからですイスラエルがその代表役を遣わされ
世界へ神の教え=トラーを伝える役割を与えられたからです。
トラー=婚姻契約を知らない民に、あなたは、はじめの愛から
離れた、忘れたと言っても意味が通じません。何から離れたのか?神の言葉=教えから離れた!と言う意味が通じないのです。
 
トラー=モーセの五書=婚姻契約を捨てて別の教えに走り
生きてずれたイスラエルへはじめの愛=トラー=モーセの五書に
書かれた神との関係、生き方に戻れ!と言う警告内容が書かれているのが、全ての預言書なのです。
イザヤ書1章を読んでもクリアーに書かれています。
18節は法廷に出て語り合おうと言う意味です。
なぜなら、婚姻契約を破った、不貞を働いた、そのことに対して
悔い改め=神の婚姻契約の中に書かれた生き方に戻るなら
全て帳消しにしよう!と神がイスラエルに対して話しているからです。イスラエル=神に贖われ引き寄せられ義とされた花嫁の
代表です。イスラエルの神を信じる人は全てこの同じ婚姻契約の
中に加えられ、同じ家族の生き方をすることに召されたのです。
 
神の教えと神の記念日を別の神々の要素のものと混ぜたもの、
そのまやかしにイスラエルの神は耐えられないと訴えています。
神の記念日を別の神々の要素と混ぜるとは、麗しく最も親密な
関係の中に別ものを招き入れる事だからです。
神はこの混ぜ物=姦淫の罪=不貞に耐えられないと
ずっと最初から最後まで同じ事を語っているのです。
聖書が途中で別の教えに変身、変化したと考えて聖書を読む
はらば、その読者に目、耳には、聖書に書いてある意味は書いてある通りにはに響かなくなってしまうのです。
 
神が最も忌み嫌う=姦淫の罪と言う言葉で表している人間の行為は、神の言葉=教えの中に混ぜ物をする事=別の神々の教えや
素を取り込み混ぜる、その事だからです。
 
福音はシオンから出る、み言葉はユダヤ人を通してエルサレムから世界へ伝えられると書いてある通りだからです。
2種類別の福音、時代ごとに異なる、人種ごとに違う福音=
神の教え=言葉は存在しないものです。
神の言葉は創世記〜黙示録までぴったり一貫して同じ事を話しているのです。
だから、モーセの五書の詳細を知らないならば、救われた後
実際にどう生きたら良いのかは深くは分からないと
神が伝えているのです。聖書は全てモーセの五書を理解している
前提で読者に向けて書かれているからです。
 
パウロの語り口は、当時のユダヤ人の中にあった聖書解説を
通して語る事があり、パウロは、ガラテヤの中に
蔓延していた問題に対する正しい対処の仕方をトラーから
解説しているのです。
 
”トラーに聞く”とは、ヘブライ語での意味、”シャマー”=聞く
と言う意味の、”従う”と訳されている言葉に言及されるのです。
 
ヘブライ語の言葉には、”従う” と言う言葉は無いのです。
従うと翻訳されているヘブライ語は全て”聞く”と言う言葉です。ギリシャ語のヘブライ語の翻訳も”フパコー”と言う言葉で、
従うと言う言葉ではないです。
 
ギリシャ語でも、”神の言葉、声が聞こえる下に居る状態”、under hearingと言う意味の言葉が”聞く”=シャマ”と言う
ヘブライ語を訳している言葉です。
神の言葉の周波数ぴったり、神の声の直下に自分の耳、意識を
位置して、神の言う通りを聞く、それがヘブライ語の聞くと言う言葉の意味です。
聞く!神の意図通りを聞いて、聞いた意味を理解したら、
神の言葉の語る内容通りを行動するのが当然であるから、
従うと訳されているのです。聞いた通りを無視して神の言う事と違う行動する事、それを神に神に”逆らう”と書いてあるのです。
 
神の言葉を聞くと言うことから外れれば、どうなりますか?
鏡の前から離れてすぐに自分が誰かを忘れると言うパウロの
言葉とぴったり繋がる内容です。
神の意図通りを聞いてない、声の下に居ない状態、
神の声の周波数から外れて、神の言葉を理解していない、
別のチャンネルの音声を聞き取り神の意図とは違う行動をしても気がつかないのです。
神の言葉に沿えば、神の言葉を捨てる=モーセの五書は破棄されたと言う教えは神の意図と違う行動をしても気がつかない状態になってしまう事を警告しているのです。
なぜなら、神が説明する人の生き方を無視したら何をどう生きたら良いのかの基準を失う状態になるからです。
神が語る人間の性質、神が語る聖別の生き方の意味を全く理解しないまま、人が語る人の定義の教え、聖別を生きてしまう。
 
そして今の世界はどうですか?神の言葉を無視、聞く事をせず、排除し自分の内なる声や、人の教えに聞いて、神の言う事を退け
気が付かないまま神の教えやインストラクションとは違う行動をする、それを逆らうと言う言葉で表しているのです。
 
 

 

 

続く