クリスチャンの世界では、神の言葉、約束、愛は永遠に
変わらないと言い、聖書は1つと言いながら実際には、
神の言葉通りに神の言葉を量らない、信じない事をしています。
それは、聖書ではなく人が作った思想、神学、教理を土台にしてしまっているので、神の言葉、聖書の方を曲げて人の教えを
神の教えの上に持って来て神の言葉の事実を塗り替える事を
やっていても、気が付いてないからだと思います。
オリジナル聖書に書かれている意味通りではない聖書解説や
コメンタリーを聞き続け、読み続けて、それが聖書に書いてある真実だと信じている事も多大に影響しています。
私個人の中での以前に教えられて来た事から考え、
体験したのはこんな感じでした。
救い主が来られたので、呪いの律法であるモーセの五書に書いてある不自由な縛りの教え=律法から解放して下さった。
今は律法の呪いの下にいるのではなく、恵の下にいるので、
以前の古い”律法”に戻る生き方は、神の恵みを無駄にし、
恵を捨てる神の望まない別物の不信仰な生き方なのだ〜と言う
教えを聞かされ、それが聖書の新しい最新的な救い主がもたらしたモーセの五書とは違う教えなのだと疑いもなく信じて、
その教えから聖書の全てを読み考えていました。
殆どのクリスチャンはこの様に考えて、聖書に書いてある事実とは矛盾している思想に気が付かないままでいるのでは
ないでしょうか。
聖書に書いてある神の言葉、どの言葉の一点一画も永遠不変で
あり、神の教えに人間が手を加えてはならない、付け足し、
差し引きしてはならないと神ご自身が直接教えているのです。
エデンの園の最初からそれが教えられています。
神が言われた通りだけを聞いて生きると言う人の生きる姿の
基本中の基本が”命の木”と”善悪の木”で表されているのです。
全人類が今の状態に陥ったのは、たった小さな1つの出来事なのです。でも大きな刈り取るべき代償、結末を招いたのです。
”アダムとハワが神の言葉ではない、別の声=地を這うものが
語った、神の言葉を曲げて、歪め、薄め、混ぜて曲解した解説をして、二人に神の言葉の真意を疑わせた事によるのです。
それが死につながる、命の重さに匹敵する出来事だったと
書かれています。
神の栄光と言うヘブライ語の言葉は、量る=重さと言う言葉と
同じです。神の言葉を言葉通りに量らない=薄める事それが
エデンの園の蛇のささやき!”神は本当にそう言ったの?”で
表されているのです。
今も同じなのです。もし永遠不変である神の言葉に対して、
神が言われた通りではない、永遠不変であると言う事実通りの
取り扱いを神の言葉に対してしないのならば、神との距離、
隔たりを作り、別世界=人の作った宗教の教えの世界を考え、
信じ、生きる事に迷い込んでしまい、純粋な神の言葉を生きる、神の性質を生きる、神が用意した神との直で透明で
一番近い関係に陰り覆いがかかり隔たりが出来てしまうのです。
神の言葉を退けた代償は、死=これは物理的にも霊的にも
隔たり、別離、分離、歪み、神のデザインした通りの元の性質ではない生き方、関係、別の場所=神の中ではない隔たりの場所の中に入ってしまう事なのです。
話はパウロに又戻しますが、パウロはキリスト教と言う、
聖書が閉じられた後に出現した宗教に改宗したと言う教えは、
聖書の事実ではありません。パウロやペテロがカトリック教や
キリスト教に改宗する、パウロがカトリック教を作ったと考えるのならそれは聖書の事実ではありません。
ローマカトリック教が造られたのは4世紀の事であり、
プロテスタント=キリスト教が出現したのはマルチン ルターが
カトリックの教えにプロテスト=異議申し立て、抗議、抵抗して宗教改革しカトリックに対してプロテストして枝分かれしたのは、16世紀の出来事なのです。マルチンルターは、オリジナル
1世紀信者達、イエシュアや、使徒達、パウロと同じ100%
トラー=モーセの五書に生きる事には戻らなかったのです。
16世紀のカトリック教の教えに蔓延っていた、神の教えでは無いパン種=人の作った教えのいくつかに対して正した事は大きな
功績ではありますが、不完全だったのです。
だから、カトリックとプロテスタントは同じ教えを信仰の土台と
しているので今もたくさんの共通点があるのです。
プロテスタントは、ヘブライ聖書の教えより、カトリックの教えと似ている共通しているのはそのためです。
西洋宗教だからです。
1世紀の聖書にあるイエシュア信者=ヘブライ=モーセの五書とは異なるものです。
西洋宗教の教えで、同じ日程の週一礼拝日、同じ記念日、
クリスマスイースターを祝い、モーセの五書=トラーに書かれた教えは終わりとする教えを信じています。
だから、イエシュアや使徒達が生きていたトラーとは別の教え、
を取り入れているのです。
1世紀の時代には、純粋にトラーを土台に生きていた信仰者しかいない、イエシュア信者の、殆ど全てがユダヤ人であり、
その中に少数の異邦人が居ただけです。
そして諸外国に居た異邦人イエシュア信者達も皆100%
トラーを教えられ、信じて生きていた人達だけが存在したのです。トラーとは別の教え、トラーを否定する教えを生きていた
人達は誰もいない、ゼロです。トラーを否定した西洋宗教、
西洋神学などと言う教えさえも存在していないのが聖書が
書かれている時代なのです。
誰一人として、聖書に登場する1世紀の信者の中に、
トラーを否定した信仰や、1世紀後半以降に出現した聖書を否定する教え、そこから生まれた19世紀に登場した西洋神学=
デイスペンセーション神学の教えを土台とする信仰をする人など誰一人として存在していなかった事実に戻れば真相が見えます。
その様な神学は、聖書が書かれている当時、特に19世紀に
出現した神学は19世紀まで存在していないものなのです。
パウロがキリスト教に改宗したから名前を変更したと言う解説も聖書の事実ではないのです。思い込みと勝手な推測憶測、
想像で様々な教えを編み出す良い例なのです。
パウロは100%死ぬまで、ユダヤ人であり、パリサイの中の
パリサイとパウロが公のイスラエル議会の前で証言した通りが
パウロの生き方、信仰、立場の真実であり、100%トラーを
支持し、生きて、そして諸外国でもユダヤ人、異邦人誰に対してもトラーだけを教えて、新しい別物の教えやパウロが独自に編み出した神のトラーを否定した教えなど一度たりもしていない!と
その証明の為に、サンヒドリンの議会で何度も証言し、
そして神殿でナジル人の誓いを果たして公にパウロにかけられた疑惑=トラーを否定していると言う噂を払拭した事が聖書に
書かれた事実なのです。
聖書に記述された事実だけに戻れば、聖書に書いてある内容が
創世記から黙示録まで全く同じテーマ、同じ内容、どの箇所も
どの時代でも神の言葉が互いに相反する教えなど書かれてなど
いないと言うシンプルな事実、永遠の事実に目が開かれて、
気が付くはずです。
全ては人が作った教えで神の言葉の真実が覆い隠されてしまい
真実を知る事を妨害されているだけなのです。
そして今の時代の一方的な真実ではない情報の刷り込み目的な
報道と同じように、クリスチャンの世界では、人の作った神学を土台にしてしまっているので、神の言葉終わりと言う教えありきでしか、聖書の中身が解説がされていないのです。
毎日毎日その教えに触れ、聖書の最初の部分は終わりと言う教えからだけ考え続け、繰り返し聞かされ続けて行けば、聖書では
無い教えでもそれが聖書の事実だと本気で信じてしまっている
だけです。
問題は自分で聖書を読み、人の編み出した教えの解説ではなく
聖書が何を言っているか自分でちゃんと考え続ける事をしない
と言うことが本当は重大問題の根であると思います。
自分で考えない、自分で正しい情報を探らない事です。
人の教えを土台にして考える事をやめて、聖書だけに戻れば
必ず神が永遠の神の真実を教えて、目覚めさせてくださるし、
はっきりと神の語る言葉の真実に目が開かれて行くのです。
マタイ16:11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
16:12 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、
パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
11、12節に書いてある事を読んで、即座にパリサイ派
サドカイ派の教え=パン種=偽の教えだと言う読み込みをすると
思います。イエシュアに言い争いをふっかけた相手も、
パリサイ派、サドカイ派グループの中の一部の人のことが
書かれているだけなのです。
ガマリエル様にパリサイ派であり国民全体に尊敬されている人が
パン種=神の言葉では無い別の教えを人に教えたり、生きる様に
強いる様なずれたことをしないのです。
こう言う言い方をすれば分かるかもしれません。
現代の信者の中、これは異邦人でもユダヤ人でも同等ですが
神の教えでは無いこと=パン種の教えを信じて、
それを教える人はいるのです。
神の言葉、教えを否定する、神の言葉は終わり、人種により違う契約があると言う教えも、イエシュアが言われたパン種です。
それらは神の教えとは異なる別物=パン種だからです。
イエシュアが忠告していたのは、神の教え=トラー=モーセの
五書に書かれた教えではない、人の作った教え=パン種に
注意せよ!と言っている事実に気が付かないと、全部のユダヤ人、パリサイ派がパン種の教えをしていると勘違いします。
パウロはパリサイの中のパリサイと宣言したでしょう。
どう言う意味ですか?ガマリエルの様に人々に尊敬され、
トラーを支持し、神の言葉を正しく捉えて、教えて生きている人と言う意味なのです。パウロがカメレオンであるが如くに、
語る相手により、別の教えをし、信仰告白、宣言を変えている
などと考えたら聖書の事実は曲ったまま、聖書に書かれた事実、真実を読み取ることが出来なくなってしまいます。
続く