西洋宗教の世界で語られる教えは、”トラー”終了以降時代と
言う教えです。
モーセの五書はイエシュアが昇天された以降は終わりであり、
全てがその”思想”から語られているのが今のキリスト教の世界で語られる教えです。
トラーは終わりという概念で、福音書以降の解説の全てが
語られてしまっているのです。
英語や日本語の聖書翻訳の中でも、モーセの五書は終わりという思想を持つ人達で翻訳がされているので、それが顕著に翻訳に
現れてしまっています。
聖書に無い言葉、思想、造語、付け足し、削除もされているのが
翻訳聖書なのです。
オリジナルヘブライ聖書とは異なる思想が加えられてしまって
いる。救い主が地上に到来したことで、モーセの五書は終わり、
又は最小限になったという発想、思想です。
1世紀イエシュアや使徒達が教えた内容を、現代の神学の色眼鏡
プリズムを通して多大に曲解されています。
イスラエルの神が、”西洋教会の神”と言う神像に変身して
しまっているのです。イスラエルではなくて、西洋。
その神像は、神がイスラエルから他の民族へ代表を鞍替えして、
新しい神の国の憲法を異邦人に与え、今の時代に於ける神の民により新しい教えを生きる様にされたと考えているのです。
2コリント 5:17
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者で
ある。古いものは過ぎ去った
見よ、すべてが新しくなったのである。
これも今までの教えは全て終わり新しい教えが現れたと勘違い
するものでもあると思います。
今世界では”オリジナル”の神の言葉だけに戻る、
いわゆるトラー ムーブメントがありますが、
これがクリスチャンの間では物議を醸し出す、目の上のタンコブ的な邪魔な異物的存在になっている事も事実なのです。
乱気流に遭遇した飛行機の乗客の様に、今まで慣れ親しんで
聞いてきたものとは全く違う異物に対する方向転換をさせられる様な不安を煽るのではないかとも思います。
特にパウロの書簡については、多大な誤解があるのです。
パウロと言う人物についても正しく理解されていないのです。
パウロは1世紀当時のユダヤ人の世界の教えをそのまま
教えている内容なのです。
パウロがモーセの五書に対しての制限を突破し、新しい教えを
話しているのだと疑いもなく信じられてしまっています。
神の言葉が変わったと主張する人達は、イエシュアがされた
教えではなく、”パウロ”が語ったモーセの五書を否定した教えである”とするのが多いです。
なぜならイエシュアがトラー=モーセの五書=父の教えを否定していると言う箇所は書いてある通りに聖書を読めばその事実は
見受けられない、だからパウロが新しい教えを編み出したの
ごとく語られています。
正しく聖書を読む偏狭の無い頭脳で考える人達は、イエシュアが
福音書の中で語られている内容は100%モーセの五書であると
認めざるを得ない内容しか書いてない事実を知るのです。
イエシュアは弟子達に、人々にモーセの五書を教え、
そしてモーセの五書に書いてある神の教えをガードして
生きるように語っている内容が福音書にはクリアーに
書かれているからです。
パウロが”メシアであるイエシュアの使徒である”と自分自身を
そう紹介し語っているのに、そのマスターであるイエシュアの
教えに反する教えをパウロが本当にするのでしょうか?
マタイ28:19 それゆえに、あなたがたは行って、
すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、
彼らにバプテスマを施し、
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように
教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと
共にいるのである」。
イエシュアの教えは100%父の言葉=モーセの五書=婚姻契約=トラーであることはクリアーに福音書にはイエシュアの言葉で
書かれている事実があるのです。
マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、
と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。
<破棄=神のトラーを不正確な理解で生きる事、
成就=神の意図通り正しく理解し神のトラーを生きる事と言う
意味の1世紀の時代のラビの世界の慣用句=廃する、成就する>
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラー=
<モーセの五書=父の言葉>の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめ<トラーに
書かれた教え>の一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。
しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
この箇所さえ、イエシュアがトラーを破棄するために来たと
誤解しているのです。そんな訳無いです。
ウルトラマン太郎、ウルトラの父を撃退するの巻そのものです。
漫画の世界でもあり得ない事態になります。
聖書に書いてある通りに考えれば2つの選択肢しか無いのです。
パウロは、イエシュア、救い主であるパウロの主が語った教えに
100%忠実であるか、又はパウロの主である方の教えに対して反旗を翻し、主の教えを否定し、自分独自の教えを編み出したとする事のどちらかなのです。
もしパウロが主の教え=トラーを否定するなら、パウロの書簡は聖書ではあり得ません。
それは聖書として認められない代物になるからです。
なぜなら、神の言葉を改造するならそれは遺伝子組み換え食品
遺伝子組み換え製剤と同じく、人間の頭脳、体に取り入れては
ならない危険なものであり、イスラエルの神に属する性質のものでは無いから神から破棄されてしまうからなのです。
そしてパウロの教えが主の言葉に反するなら、それは聖書学的に
劣悪な教えであると同時に、非論理的、理屈に合わない教えに
なってしまうのです。
パウロが書簡を書いていた時期は、同時に福音書が書かれつつ
ある時なのです。そして、1世紀当時”その道”の者と呼ばれた
ナザレ派、当時のユダヤ教の一派であるイエシュア信者達へ
パウロは書簡を書いているのです。その道のものは100%
モーセの五書変わらずに信じ、生きている人以外にいませんで
した。現代の様に神のトラーを否定しながら同時にイエシュア
信者であるなどと言う人は誰一人存在しない世界が書かれているのが福音書以降の内容なのです。
もし、パウロがモーセの五書に反して教えるなら、それは完全に
当時の”その道”の者達から受け入れられる教えでは無い!と言う
その事実に気が付かないとならないのです。
もし使徒やパウロが”モーセの五書”に反する教えをしたならば、
それは神の言葉、聖書に基づけば100%完全なる偽教師、
偽預言者以外の何物でも無いと言う事だからです。
当時の人達が理解していた神の言葉は完全であり、もし誰であれトラー=モーセの五書を否定する教えするならば、それは神に
対しての死に値する冒涜罪であり、イスラエルの神から出た者
では無いと言う認識の元に聖書を理解しないとならないのです。
パウロは100% タナック=トラー、預言書、諸書を信じ、
教え、同時にトラー、預言書に書かれた救い主が現実に地上に
来られた事実を教えているのです。
この事実をクリスチャンの世界では完全に誤解しています。
イエシュア昇天以降新しい教えが出現したと考えてしまっているからです。だからパウロの書簡は誤解されてしまうのです。
パウロが教えている内容は、一貫性が無いのでしょうか?
途中でモーセの五書に反する教えに思想を変えたのでしょうか?
パウロはユダヤ人でありパリサイの子であると自分を紹介したのに、後で自分がユダヤ人=トラーを100%支持し生きている事を否定しやめて、異邦人の頭になったのでしょうか?
イエシュアを信じた始めはトラーを生きていたのに、
後でトラーを捨てて未熟な信者の様になったのでしょうか?
現代主流の多くの学者は、パウロが使徒らしからぬ神の教えに
反する教えをしていると主張します。
しかしその様な説明は、パウロは”イエシュア”の教えに反した
教えをしていると言っているのと同じ事なのです。
パウロが出会う人に対して、人、人種により、時と場合により、
コロコロコロコロ神の教えをパウロは変えたと言っているのです。そんな教えを神から権威を与えられた人が語るものである訳がないし、神の前に受け入られるものではなくなります。
もしパウロの書簡が、神から霊感を与えられて書かれたと信じるならば、パウロがある時には神の教え通りを教え、ある時は
神の教えを否定するなどと言うそんな事は真実では無い、
受け入れられるものではないのです。
聖霊がそんな事を許される訳が無いからです。
神の言葉はイコール聖霊であり、神ご自身である事が聖書には
はっきりと記されているのです。
1コリントの続きですが、ここで今一度このコリントのグループ
の中にあった問題点が何であったのか考える必要があります。
4:14−21にある通り、パウロはこのグループでの”父”なる
存在、導きての役割を担っていたのです。
内部分裂、仲間割れと言う問題があった。そしていつ分裂決裂してもおかしくない状態の敏感、微妙な危ない状態のグループ
だったのです。
そして、このグループの中で、”アポロ” ”パウロ” ”ケパ”と言う
教師がいて、誰が誰に信奉するなどと、そんな事でも揉めていた。これは、神の言葉を実際に生きる中での解釈が違う事にあるのです。ハラハーと言いますが、これも説明が必要なものだと思うので書いてみます。
続く