神の永遠の言葉を否定しなければパウロの語る論点の真相が見える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の事実だけに立たないなら、神の教えではない人の教えを

生きてしまうことになるでしょう。

 

キリスト教の世界で語られている教えは、ダービーなどの西洋人が発想して編み出した聖書とは異なる教え、非聖書的不純物の

教えが混ぜられてしまっています。

 

神の教えではない教えが、神の言葉に混ぜられてしまう、

又は神の言葉を否定する教えを土台に解釈している西洋哲学思想神学の色眼鏡を通して聖書を色ぬり語ってしまっているのです。

”神の言葉が途中で変化するとか終わった”とか、”異邦人には

無意味”などと言う教えは聖書の教えではないのです。

 

それが神の教えである!と信奉するその視点、観点で語るのが

今の主流の西洋宗教の教えです。でもそれって純粋な神の言葉、聖書では無い。なぜなら神の言葉は神が説明している通り、

神の言葉は永遠の真理であり不変だからです。

 

兎にも角にも神の言葉は永遠不変!と神が言う事実にだけ立って聖書を読めば、神の語る事実がどんどん見えてくるのです。

人の教えが永遠不変と神が言われる神の言葉の事実を妨害して、真実を見えなくさせ盲目にさせているのです。

 

神の言葉=神ご自身であり神の性質が現れ出るDNA、設計図で

ある事実を理解すれば、神の言葉のどの箇所も人間が変えて

しまえば、神の意図している教えを人が理解出来なくなるのは

当然の事だと分かるはずです。

今の時代の人の作り出した非聖書的教えに聞いても、神の語る

事実は見えないのです。

だから神の教え=聖書の事実だけに戻る!

神が伝える永遠不変である神の言葉をその通りに受け取ろう、

知ろう、そして神の性質を生きようとする意識、態度の中に

神は大きく働かれて神の永遠の真実を神の言葉を通して

教えて下さるからです。

 

次の箇所も神の教え、アヴラハムの割礼はイエシュア到来後は

意味がない、終わり、異邦人は割礼を受けてはいけないと

パウロが言っているのだと誤解されている箇所です。

 

コリント人への書簡でのパウロが対処している問題は、

仲間の間での”分裂、分派、そして不品行、トラーを知らない

ままで神の性質、言葉に根付き生きていない信仰の幼子

又は神の教えの的を得て理解の無い人達へ話しているのです。

 

そしてここで書かれている、1世紀ユダヤ人が割礼の後を消すとか、異邦人が割礼を得ると言うことに対してどんな意味が

あったのか知る必要があります。

ユダヤ人が割礼の後を消すと言うのは、イエシュアが到来する前のギリシャ帝国からのユダヤ人への弾圧、トラーを生きる事を

禁じられていたその背景にあります。

 

日本で言えば公衆浴場に行くと言う文化がありますから

分かると思いますが、当時のコリントの人達も公衆浴場に

行けばユダヤ人の割礼の印が見えた訳です。

そしてその割礼の後を消すと言うこともギリシャ帝国の弾圧の中又はローマ帝国からの同等の弾圧=イスラエルの神の教え=

トラーを生きてはならない、神の記念日を生きてはならないと

言う圧力の下に置かれていた社会を知ると見えると思います。

 

そして、コリント人の異邦人信者の中にも、この”割礼”=

ユダヤ人に改宗する儀式=プロセライト=割礼と言う名のラビ達が編み出した改宗儀式をした人達は、ユダヤ人の様に神の国で

神に認められているとか、神の国で一番の位に位置する、

上級国民になると言う神の教えとは別の意識を持っていてそれで議論が勃発していたのです。

 

アヴラハムの割礼の真意を理解していない事は明らかです。

アヴラハムに与えられた印は、神の義が無償で神から一方的に

提供されている事実を表すものであり、神の子らとされた印=

この世とは分かたれている境界線を敷かれた人達であることを

命を継承する男性の生殖器につけられて、目に見える印として

与えられたものです。

代々割礼を受けた人から生まれるもの=義とされている無償の

永遠の約束です。でも肉の生まれがアヴラハムの子孫であったと

しても、神の性質=神の教えを生きない人、頭脳の割礼の無い

生き方をしているのならそれは意味が無いと書かれています。

 

同時に肉の生まれがユダヤ人でなくても、アヴラハム=信仰の父

に属する全ての民族出身の人達も、同じイスラエルの神の大家族の一員である事が書かれているのです。

”アヴラハムは全世界の民族の父である”と神が説明しているから

です。

異邦人も同じイスラエルの神の性質を生きるなら、神の教えを

本当に理解して知る人なら割礼を自分の子供=男子に授ける事をするのです。ちゃんと考えれば分かる内容です。

印さえ肉に付いていても意味が無いと言う事。でも印には意味がある。実際の生き方と肉の印がマッチして初めて意味がある!

 

異邦人の場合、割礼にはハンデイがあります。

ユダヤ人の場合、割礼の意味を知る親達は、アヴラハムの割礼を

男子の赤ちゃんに誕生後8日目に授ける事をします。

割礼を受ける子供は自分が知らない間に割礼を授けられている

事実に後で気がつきます。

割礼の意味を理解していなくてもアメリカ人の様に割礼を男子の

赤ちゃんに施す習わしがある国に生まれれば、自分が知らない間に割礼を受けている事実があるのです。

でも日本ではその様な理解と信仰を持つ人は日本人の中には

無いので、割礼を授けない。そのハンデイがあるのです。

パウロがアヴラハムの割礼を否定しているのではないのです。

無意味な議論と、ずれた意識を正しているのです。

パウロの論点は何か?を考えて読めば理解出来ます。

使徒15章にあるずれた視点で考えている人達と同じです。

15:1さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。

<アヴラハムの割礼ではなく、プロセライト=ユダヤ人になる

改宗儀式をしなければ、救われないと言う1世紀当時のラビの

教えの事です。>

 

神の国での上級国民になる、神に特別に認められるために

その目的のために、”割礼”=改宗儀式をするなんて意味が無い!

そして割礼があるないで内部分裂し決裂している事、

その動機による行動を正しているだけです。

割礼は神の永遠の仰せ、教えであり、契約の中に加えられている印であるものをどんなものであれ人は否定出来ないのです。

 

男性は代表者を表し、ユダヤ人=イスラエルは神の国の長子と

しての代表者なのです。代表者は、ずれることは絶対に許されていない厳しさがちゃんと聖書に書かれています。

地の塩、世の光として世界へ向けて神の栄光、教えを表す灯台としての役割を担っているからです。

兄ちゃんがズレたらダメ!弟妹も同時にコケるからです。

お兄ちゃんは絶対的な責任を負わされているからです。

この違いに気がつけば良いのです。

異邦人は弟、妹です。弟妹も先に生まれた兄と同様父の教えを

知れば同じ内容を生きるからです。

 

もっと理解しないと見えない点は、イスラエルが神の国の地上での代表なので神の教えを生きる事、特に聖なる地=イスラエルでは神の教えを決して汚してはならないのです。

他の国の異邦人は神の教えを知らない異教徒たちです。

イスラエルの神の教えを理解しないから、イスラエルの神の教えを生きていない!と言うだけの事です。

ユダヤ人だけの教えなどと言うものは神の国にはないのです。

代表者にまず伝えている!!!この違いだけです。

代表者=イスラエルを通して全世界の国民に神の同じ教えを

伝えている、それが福音なのです。

福音とはトラーとは違うものと言う考えているなら、それは聖書とは異なります。福音はトラーに書かれた人間の生き方に回復

できる状態が取り戻されている!その事実だからです。

 

トラーにある他の教えでは、負債を帳消しにするシュミタ年=

7年ごとの教えと、7回のシュミタ年を経た50年目のヨベル年があります。

そして、今はイスラエルでもガードする事をイスラエル政府に

よりとりやめている土地を7年目には休ませる事もあります。

これは他の国ではイスラエルの神の教えを生きる!と決めた

リーダー以外はやらないですから他の国ではやらないだけ。

 

世界に散ったユダヤ人から教えられたため、アメリカでも割礼を生まれたばかりの男子の赤ちゃんに授けたり、

7年目の負債をチャラと言うシステムがあるのです。

これは私も理解していませんでしたが、なんで割礼をアメリカ人はするのか、なんで7年目に負債がチャラになるのか知りません

でした。

これは完全にモーセの五書に書かれた教えそのものです。

アメリカに渡ったユダヤ人がトラーを伝えてそれをアメリカの

政府又は病院でトラーに書かれた教えであることを知らないまま実際に実践していると言う事なのです。

その意味、事実がトラーから来ているとアメリカ人は理解して

いませんがやっているのです。

 

1コリント 7:17 ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、

また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。

これが、すべての”カハール”=”エクレシア”に対してわたしの

命じるところである。

 

 7:18 召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうと

しないがよい。また、召されたとき割礼を受けていなかったら、

割礼を受けようとしないがよい。

 

 7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。

大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。

<戒め=モーセの五書に書かれたトラー、神の教えをガードして

生きる事が何より大事!とパウロが語っています。>

 

 

 

続く