1コリント パウロが語るのは100%モーセの五書=父の言葉=トラー=イエシュア | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント 2:5 

それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、

神の力によるものとなるためであった。

2:6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、

知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、

この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。

2:7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての

神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。

 

パウロは常に100%トラー=モーセの五書に書かれた

神の言葉、教え、インストラクションについて話しています。

知恵、さとし、戒め、掟と書かれているものは全て100%

トラーの中に書いてあるものを指して聖書では語っているのです。

 

1コリント2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、

神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
<詩篇31:19 イザヤ64:4 65:17>
パウロが預言書を引用しています。預言書を引用するとか
トラーを引用している事なのです。
なぜなら預言書はトラー=モーセの五書の解説、モーセの五書の
生き方に戻れ!と言うのが預言者=預言書の役割だからです。
 
1コリント3:16 あなたがたは神の宮であって、
神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
 
神の霊=神の性質=神の言葉の中に表されている実態の事です。

 

3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を

滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、

そして、あなたがたはその宮なのだからである。

神の宮の定義はトラー=モーセの五書に書かれているもの

なのです。聖なるものの定義も100%トラーに書かれた詳細

なのですだからもし人がモーセの五書=神の教えを捨てるなら神の宮である事聖なる状態に留まる事がどう言う事なのか知らない、理解出来ない、分からないままになってしまうのです。

自分定義の聖別やきよめは何とでも考える事は出来ます。

でもそれは神の定義するものとは異なるものなのです。

 

イエス様信じてればイコール聖ですとはならないからです。

聖なるもの=境界線を引かれ、この世に属するものとは区別され

神の上に分かたれた者としての性質に留まる事が分からなければ

きよくないものと混じり合い続けながら”聖なる者である”と

自分で解釈しているだけなのかもしれないのです。

主よ主よと言うだけの場合にイエシュアがなんと言われたのか

考えたら分かります。知らない=契約の愛、実態を生きていない

なら呼び名だけ呼んでも、関係の中に留まる状態ではないと

イエシュアが言われました。マタイ7:23

信じるとは神の性質=イエシュアが生きられた実態を

信じる人は神の性質を生きると言う意味なのです。

信じると言うならサタンも神を知って恐れていると書いてあります。>

 

パウロはトラー(預言書、諸書)から全てを引用しています。

 

 3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、

その人は知者になるために愚かになるがよい。

 

3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」

書いてあり、

<出エジプト1:10、18:11 

ヨブ5:13、詩篇7:14−15、9:15−16

141:10、

イザヤ19:11−14、29:14−16、44:25、

2サムエル16:23、15:31、 17:14、23

エステル7:10 

 

3:20 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。

<ヨブ11:11−12、詩篇2:1、94:11>

 

コリントに居た人達は、神のトラー=モーセの五書を理解していない人達であった事が伺えます。

 

どの様な関係は婚姻できないのかトラーにはクリアーに

書かれています。神の教えは永遠であり、人が関係を保つ教え

も人種により違うものでは無いことがはっきり書かれているの

です。レビ記18:6−29

 

1コリント 5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間に

不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもない

ほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるという

ことである。

 

 5:2 それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。

むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。

 

5:3 しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、

霊では一緒にいて、その場にいる者のように、

そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。

 

 5:4 すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの

霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、

 

5:5 彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。

 

そしてパウロが何を話しているのでしょうか?

この箇所は何度も書いていますが、パウロは神の記念日

春の過越の祭の一連の教えから福音的要素、教えを話しています。

少なくともコリントに居た人達は、神のオリジナルの記念日、

シャバット、新月、祭りを祝っていた事実が分かる事が

記されているのです。

 

5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、

知らないのか。

 

パン種は”ハメッツ” 聖書では”罪”を表すものとして使われている

ものです。

 

5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種=<以前の自分の中記憶の中にある罪>を取り除きなさい。あなたがたは、

事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

 

あなたは事実罪人=古いパン種で膨れた人の実態では無いと

パウロは教えています。注意して生きないなら以前のパン種=罪の性質を取り込んで神の似姿の性質とは違うものに膨れ上がって

しまいますと教えています。>

 

5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、をしようではないか。

 

<パウロは異邦人が廃れたと言う神のオリジナルの記念日、

祭りを種無しパン=要らないものがそぎ落とされた神の性質通りの人として祝おう!とはっきり記されています。

この事実に目を留めて考えれば、パウロは変化した神の言葉や

教えなどしていない事実にはっきり気が付けます。>

 

5:9 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、

 5:10 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から

出て行かねばならないことになる。

 

1コリント 6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、

偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、

いずれも神の国をつぐことはないのである。

 

6:11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。

しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、

またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、

義とされたのである。

<群れの中に悪影響を与える人がいるのなら、放置してはならない事が書かれています。

なんでも許しますと言うのは、トラーに書かれた愛の実態では

ないからです。神により贖われ洗われきよめられているのに

元の罪の性質を生きるならその人は神の国の一員として

相応しくない生き方をしているので、神の家族を汚してしまう。

追放されてしまうと書かれています。

 

神の定義する愛には安全なる境界線があり、仲間の中でルール

違反をし続け他者を破壊する行為をする場合、もしその行為を

正さないなら群れの外に出されてしまうことが書かれています。

 

羊の群れに狼を放り込んで置く事は出来ないからです。

これでどれほど人々が傷つけられて行ったのか。

世界で聞かれる裁判は氷山の一角です。

特に群れのリーダーが仲間を破壊するのを知りながら、

皆が見て見ぬ振りをする様な事、それは聖書でも何でもない事

神の語る愛の実態を生きていない事なのです。

 

続く