ローマ11:1 そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人で
あり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
<置換神学の教えは聖書によれば事実では無い記載がちゃんと
至るところにされています。置換神学=イスラエルは神に見捨てられ、異邦人クリスチャンが新しい契約を受け取った代表と
なった=人の思想を土台にした空想の教えです。
なぜならトラー以外の婚姻契約神のトラー=教え、
インストラクションは神の中には無いからです。
又は異邦人は神からの契約を受け取った代表者では無いのです。代表はただ一人の人を通して、ただ一つの国民イスラエルなのです。そして全ての人はイスラエルと言う神の家族に加えられる
それが聖書に記載されている神が語った永遠の事実。>
エレミヤ2:11
その神を神ではない者に取り替えた国があろうか。
ところが、わたしの民はその栄光を益なきものと取り替えた。
ローマ11:2 神は、あらかじめ知っておられたその民を、
捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと
言っているか、あなたがたは知らないのか。
すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。
11:3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、
あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが
取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。
3節の引用は1列王記19章の預言者エリヤと神との対話から
書かれています。
1列王記19:10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために
預言書、諸書を理解しているのです。引用の裏に何が書かれて
いるのかの全体を知って聞いているのです。
11:4 しかし、彼に対する御告げはなんであったか、
「バアルにひざをかがめなかった七千人を、
わたしのために残しておいた」。
1列王記19:18「ところで,わたしはイスラエルの中に七千人を残しておいた。すべてそのひざがバアルにかがまなかった者,
皆その口がそれに口づけしなかった者である」。
バアルにひざをかがめない7千人。残りの民。
バアル=異教の神に混じり合う事をしない人々。
異教の神々の教えを少したりとも取り入れない、
異教徒の様に体に思索に行動に汚れを取り込み続けない人達。
<これを読んで自分は異教の神々と交じってなどいないから安全
大丈夫、神社仏閣に行ったとしても拝むわけないからねと
思うかもしれませんが、イスラエルに起きた事が書かれているのは異邦人へも同じ教訓です。イスラエルは完全にイスラエルの神を捨てたのではなく、異教神の教えや習わしを通して、
イスラエルの神に仕えていたと思っていたのです。
シナイ山の麓での金の子牛を通してイスラエルの神を拝んでいたのと同じ事です。自分の中にある、エジプトで培った方法で
イスラエルの神に近づき、礼拝する。異邦人も同じくこの方法をやっているのです。その方法で良いと考えていたのです。
異教神の教え=人の思想=神の教えではないものを神の教える
真実だと信じ、生きる事と同じです。古代も現代もふんだんに
イスラエルの神に属さない教えや習わしetc etc etcが取り込まれてしまってそれが本物生粋の礼拝だ、教えだと勘違いしている
部分があるのです。混ぜ物の教え、礼拝それこそが見分けがつかない曲者なのです。
それらしくてもそれらしくないイスラエルの神に属さないもの。
区別が難しいのは、イスラエルの神の教えと思いながら
実は異教神の教えが背景にあり混じった教え、
それが一番見分けが付かないと思います。
でもそれはバアルに膝をかがめる行為そのものなのです。
似て非なる神がもっとも忌み嫌う別物を混ぜて神の教えを
変形する事、それこそが区別しにくい”汚れ”です。
どれほど混ざった教えを信仰しているのか、オリジナルの神の
言葉だけに戻らない限り、人間の編み出した思想伝統の教えと
純粋な神の言葉の何が違うのか、その違いには
気がつけないからです。
次の箇所も誤解して読む箇所だと思います。
ローマ11:5 それと同じように、今の時にも、
恵みの選びによって残された者がいる。
11:6 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
聖書で語られている恵の定義は、受けるに値する何もしていない
一方的に神から与えられたもの、それが恵です。
そしてこの箇所の行いにより得るのでは無いと読んで、
神の言葉を生きる必要はないと飛躍した教えが解説されていますが、それは神が語る真実ではないです。
行いにより、義とされるのではない事実と、義とされた人は
神の性質を生きる=その人たちの行いはトラーぴったりあった
性質の生き方をすると神が教えています。
逆に考えたら分かるでしょう。神に贖われ救われて神に
ガードされ保存されている残りの民は神の言葉を生きない
行わないで生活すると書かれていますか?違います。
神の選びで残りの民は神が保存している事実がある。
生まれてきた事が自分の努力や行いでなされたのではないのと
同じ性質のものです。
自分に与えられた性質や要素は自分が作り出したものではなく
神に一方的に与えられたもの、それと同じです。
聖別の意味にも繋がります。
神の目的通り、プラン通りに残りの民が保存されている事実が
あるのです。神がその人達をガードし、確保している。
それは神のミッション、目的を遂行するためでもあるからです。
ローマ11:8「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、
ルカ16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。
わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ
来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
<五と聞いているユダヤ人には、五=モーセの五書と聞いているのです。モーセの五書=トラーを聞かない5人。
花婿を待っていた10人<10の言葉>の乙女とつながる
箇所です。
油=トラーを内側に持って生きていた5人。油=トラーを内側に
持たない、生きてもいない5人。どちらが花婿と共に婚礼の宴に
向かったかのたとえ話と同じ意味です。5=モーセの五書トラー
16:29 アブラハムは言った、
『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、
もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改める=神の教え=トラー=モーセの五書に
<戻り生きる軌道修正をする>でしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに
耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
答えはクリアーに書かれています。今”モーセと預言者”
つまり、トラーに書かれた教えに今耳を傾けないならその場合
何を言っても説得を試みても無理ですよと話しているのです。
聖書が語る頑な心=頭脳、うなじのこわい民の生き方は神の
トラー=モーセの五書を無視し戻らない人達の事をそう解説
しているのです。
11:10 彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、
いつまでも曲っておれ」。
詩篇69:22 彼らの前の食卓を網とし、彼らが犠牲をささげる祭を、わなとしてください。
69:23 彼らの目を暗くして見えなくし、彼らの腰を常に震わせ、
続く