ローマ9章パウロの言葉を誤解する原因がたくさんある | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私個人の経験を振り返って考えみるのですが、

この様な教えをずっと信じた後から聞かされてきました。

 

イエスキリストが来てから初めて本物の救いや福音が人類に対して実現したと教えられ、キリスト以前の人々は厳しい律法を

生きて仮の救い、仮の許しで耐え忍んでいたと教えられました。

そしてそれらの教えが聖書に書かれた事実だと思っていました。

 

キリストが地上に来られるまで、処刑され昇天されるまで

本物の許しも無いし、聖霊も人の内側に住まわれないと言う

教えでした。時代ごとに神は人に対して人種に対して違う取り

扱をしている、別の人相を示す神=怒りの神、恵の神。

 

そして救い主が地上に来られる以前の人は皆地獄行きとも教えられたこともあります。誰かの考えの聖書の読み込みを聞いていただけだったと後で初めて知るのですが。

 

聖書の最初の箇所、モーセの五書、預言書、諸書は古い教えで

様々な教えが昇天以降変更になったと教えられました。

 

時系列上で、昇天前後で教えや救いの内容が変わると言う

西洋聖書思想。そしてユダヤ人の生きていた教えは呪いの律法であり、その律法に固執し、キリストの恵みを受けない生き方は

悪いことであると言う刷り込みもされました。

恵みとはモーセの五書に詳細が書かれているのに

全く矛盾した教え、人間の思想なのです。

 

トラー、預言書にはイエシュアそのものが書かれており

神の創造された人間の本来の生き方が書いてあるのです。

イエシュアも言われたでしょう。わたし=トラーであると。

神=言葉が肉体として地上に現れたとヨハネが福音書の冒頭で

話しているのがその事実でもあるのです。

そして聖書は、モーセの五書以降、全ての書はモーセの五書を

指して語っている事実があるのです。

 

ローマ9:32 

なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかの

ように、追い求めたからである。

彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

 

<この箇所そして他の書簡でも同じですが、パウロは”律法”=

ノモス=トラー=婚姻契約=モーセの五書を生きる事が

神のみ旨ではないなどと話しているのでしょうか?

全く違います。つまずきの石=肉の目から見る考える生き方。

人の考えの生き方、やり方に固執し、神の言われる通りを

受け取り神の教えを生きない生き方の事です。

神の義を神から与えられているのにあたかも人間が自分の行いでそれを獲得しようとしているそのずれた思考回路から出る行動を戒めているのです。

つまずきの石=神のトラー=モーセの五書と誤解して考えたら

神の伝えている永遠の真実を理解出来なくなってしまいます。

 

ここで語られている事は使徒15章の論議と共通しています。

当時のユダヤ人信者達は、ラビ達が作り出した”ユダヤ教”に

改宗する儀式を経ないと神の国の一員と認められないと

考えていたその事と同じです。神の子とされる条件は、シンプルに信仰により義とされている事実を受け取る以外の別のプラス

アルファが無いとならないと言う人間が作った教えを生きる事

それがあれば神の国の一員に認定されると言う非聖書的な教えの事を言っているのです。

 

ガラテヤ書でもある通り、”割礼”と言うユダヤ教のラビ達が

作った、アヴラハムの割礼とは違う意味のユダヤ教徒に改宗すると言う儀式を”割礼”と言う用語で1世紀当時呼んでいるのです。

人の行いで神の前に義とされているのではなく、神が義として

下さっている、神が100%一方的に人に与えている事実を信仰により受け取るだけ、それ以外はの手段はないのですと

話しているのです。

でも、義とされた人はその後は、神のトラーを実際に行い、

生きると神に教えられている事実を見逃してはならないのです。

ここをクリスチャンの世界の教えでは、本当に誤解され

勘違いして解説しているのです。

 

信仰による義だけで、神の教えは生きる必要がないと勘違いしているのです。ダービーやマルキオンの非聖書的教えは

永久に却下しないとならない。

では一体救われた人はどんな生き方をすると聖書には書いてあるのですか?何を根拠に地上の生涯生きるのですか?

 

ちゃんと聖書を確認すれば、預言者、イエシュア、パウロ、

使徒達は100%神の子らは”神の教え=トラー=婚姻契約”の

生き方を生きると話している揺るがない事実が聖書には証拠と

して書いてあるのです。これが歴史上最大に誤解された神の言葉

聖書を曲解された教えに変えられてしまっているのです。

 

神に造られた通り、神のデザイン通り、猫は猫らしく犬は

犬らしく振る舞い、救われた人は光の子らしく=イエシュアが

地上で生きて手本を見せた通り、神のトラー=教え、

インストラクションを生きる!と聖書には書いてあるのです。

 

聖書に書いてある事実をはっきり捉えて、行いにより救い、義を獲得しようとするその行為、思考回路はずれていると書かれて

いるのと、そして神の子らは神の教え、神の似姿の性質=神の教え、インストラクション=トラーに書かれた実態を行い生きる!と言う神から伝えられている永遠の事実、この違い、区別に

はっきり気が付けば何をパウロが言っているのか理解出来ます。

 

パウロの32節での注意、警告、これはクリスチャンの世界にもある同じ問題でもあります。

何々やらなければ、何々の現象、印がなければ、救われている

証拠とはならない、何々をしないと神の国のメンバーとは

認められない。自分の一番大事なものを神に捧げ捨てて、

神のために神の御国建設のために犠牲にならなくては

いけいない。

御国建設ってどう言う意味だと思いますか?

神の国を治める人たちは、神のトラー=神の教え、インストラクションを生きて、成人として他者を教え導き、ガードする事を

する人達で行われる事なのです。

イエシュアが言われた”神の言葉”を生きる人達が本当の母、

兄弟、神の家族と言われているそれなのです。マタイ12:50

 

そしてあれこれ宗教活動に参加しなければ、神を愛している

証拠にはならない、神に喜ばれないetc etc 

洗礼受けてない人は本当には救われたとみなされない。

それと同じです。表向きの事だけで中身が無いなら意味は無い。

 

神は自分をしっかり生きて、ガードし、そして家族を大事にし

守り、導き、そして周りに居る隣人を大事にする事。

宗教活動=神を愛することではないのです。

それぞれがそれぞれに造られた人の性質通りに、それぞれが

その時々を神に任された事を自分の生きる場所でしっかり生きる事をする。これに集中し、同時に周りの人を自分の如く大事に

する事。普通の事なのです。

 

神の義は人が何かの行いをして得られるものでは無い!と言う

前提から外れているそのズレた意識をパウロがここで指摘して

いるのです。神の言葉を生きる=律法主義=神が神の教えを

生きる事を禁止しているなんて誤解して聖書を読み続けたら

それは神の意図している教えが理解出来ないまま宗教の教えを

信じてしまうのです。宗教=人の教えが混ざったもの。

 

おもて向きには同じ行動に見えても、その人の中にある意識が

神の意図、本質、教えからズレていたら別物=宗教を生きることになってしまうのです。

神の教えを生きるのは、それが新しくされた人=義とされた

本来の人間の姿にされた人の生きる道=本来の人の姿=

イエシュアの生き様を生きる事なのです。

もし神の前に怯えながら、義とされるためにその目的のために

神の言葉を一生懸命生きるならそれは奴隷状態でズレています。

 

善悪の知識の木から食べたら神の様に賢くなるよ〜と

言われた言葉を信じる事と同じ=それが信仰によらない

行いにより義とされようとする意識であるのです。

 

ローマ9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、

さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、

失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。

<このパウロの引用はイザヤ28:16の引用であり、

1ペテロ2:6−8でも同じ引用がされています。

福音書〜黙示録、イエシュアもパウロも使徒たち全員、

トラー、預言書だけを引用しているのです。

 

預言書、諸書を引用すると言う意味は、トラーに書かれた内容に

基づき書かれた書を引用している、つまり聖書のどの箇所も

100%トラーを話しているのです。

その事実に気がついて聖書はどこの箇所も100%トラーだけを話している事実に立ち返って軌道修正して、聖書に本当に書かれている意味通りに読み直す、理解し直す、聖書は1つの書であり聖書のどの箇所にも神の言葉は変化などない事実に戻る必要が

あるのです。人の教え=神の言葉は時代ごとに変化、昇天以降は別の新しい教え、新しい契約、別の福音、別の救いに変化した

と言う人間が作った思想幻想を全部根こそぎ削除破棄する。>

 

 

 

続く