聖書、神の言葉、創世記の最初から黙示録の最後まで、
どの箇所たりとも神の言葉は絶対に変わらないと言う前提を
知らない場合は聖書を別の教え、別の福音に変形させた解釈を
創り出してしまいます。
そして聖書に登場する人達、このローマ書はパウロが書いた
ローマ人へ宛てた手紙ですが、聖書のどの箇所も、どの書簡でも
預言者達、イエシュアやパウロが神の言葉が終わったとか、
人間の意見で神の教えを適当に、受理、却下なる仕分する話
など、一度たりとも話していない事に気が付かない場合に、
聖書とは違う神学や思想が作り出されてしまうのです。
人の思想、哲学で解説される聖書の内容は神の言葉の真理、
事実から外れているのです。
神の教え、言葉とは似て非なる教えなのです。
神に造られた人間の誰一人として、神の言葉を人の意見で仕分け変形、削除、付け足しするなんて発想さえしない人達が
聖書には書かれているのです。
人間の発想、幻想、空想の世界で語られている教え、
解釈が聖書とは異なる西洋神学の教えなのです。
神のトラー=教えからズレたユダヤ人達の歴史は大家族の長男=代表としてのズレとして書かれていますから、混ぜ物の教えに
走った危険とそれに伴う厳しい代償は全世界の民族への
同じ警告のために書かれているものです。
クリスチャンの世界で語られる”悔い改め”とか”神に戻る”
”神と正しい関係に戻る”と語られている内容は、聖書では本当はどう言う意味で神が人に伝え、教えていると思いますか?
神に戻る!とは、”婚姻契約”の生き方=神が人に教えた、
神が創造した神の似姿の人間の生き方=トラー=神の教え、
インストラクションの生き方に戻る!!!
それが聖書的悔い改めの神から示されている定義であり、
聖書に書かれている”悔い改め”の本当の意味なのです。
例えば預言者ヨハネが促した”悔い改め”とは、
神のトラー=モーセの五書=婚姻契約の生き方から
外れた人達へ、トラー=神の教えに100%完全に軌道修正し、神の教え、インストラクションを生きることへ戻れ!と
促しているのです。預言者の神から受けた人へ伝えた託宣も
100%同じです。トラー=婚姻契約=モーセの五書に書かれた
神の教える生き方、インストラクションに戻れ!
神に戻る、それぞれの人達が好き勝手な自分基準の生き方を
したらそれは肉に割礼があっても中身は無意味、空なのです。
神の言葉の事実に気がついて読めば、”悔い改め”=シュヴァー
聖書に書かれている悔い改めとは、別の悔い改めをしても
神の意図通りの軌道修正にはならないのです。
悔い改めたら、神の前に軌道修正=何に照らし合わせて軌道修正するのか?神のトラー=神の教え、インストラクション=
モーセの五書にその詳細が書かれているその生き方に戻り
実際に神の言葉を生きる事!が唯一神が定義した
”本物の悔い改め”の定義なのです。
でも世界で教えられて来た西洋神学の教え、ダービーの教えは、
救われたら神の言葉を学ぶ必要もないし、生きる必要もないと
言ったのです。100%非聖書的教え、人間の思い付きの思想。その様な教えを聞いた人達は別の自由、別の解放
聖書とは違う自由、解放を想像して散りじりバラバラ聖書とは
違う教えを説いて違う生き方をして来てしまったのです。
ある部分は聖書の真理に基づいていますが、神の教えを却下して人の教えが神の教えになってしまっているのです。
ローマ7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、
わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
<ここで勘違いしてはならないのは、神のトラーは100%
聖なるもの、完全であり善であるとパウロも紹介している事実に立って、ではパウロは何を説明しようとしているのか
読み取る必要があります。>
イエシュアに繋がれない状態ならば、罪は人を虜にしてしまう。
戸口に来る”罪”を招き入れてはならないと創世記の最初に
言われた忠告と同じです。
イエシュア=トラーなのです。トラー=神の教えを常に思い巡らして、入り込む罪を戸口で追い払って生きないなら、
罪はどんどん自分の思考回路の中に入りそれを思い巡らし
温め続ければやがて行動に影響を与えてくるのです。
創世記4:7
そして神に出会う以前は、人の本来の性質に逆らう生き方をし、そしてまことの命に生きれない状態=死んだ状態であった。
以前の死んだ自分で生きていた記憶は救われた後も生物学的に
脳回路の枝の中にインプットされていて、その思考、
行動パターンは新しい人として思索を常に切り替え続けて生きて行く選択をしない限り、救われても関係なく人は以前の生き方に留まり続けてしまうのです。
人は本当の事=神の語る教えを知ったら、自分のズレが鏡=
神の教え=トラーに照らし合わせて映し出されて見えるので、
どれほど自分の状態が神の性質通りの状態からズレた生き方を
して、汚れをふんだんに取り込んでいたのか、
神の教え=光が付いて初めて気がつく事だからです。
トラーは良いものであるとパウロは一貫して人に教えています。でも一旦神の定義する人の生き方を知らされたら自分の中に
あったズレが死=神とそして本来の自分とかけ離れた場所に
居る状態に気がつくのです。
そのズレの破壊性、毒、恐ろしさに気が付けば、愕然とする
でしょう。神の教え=トラーが無ければその気づき、発見は
起こらないのです。
自分の理屈や都合でなんとでも解釈し辻褄合わせてしまうから。
でも神の絶対的基準、神が造られた人の性質、生き様が書かれた神の教え=トラーに照らし合わせれば、自分の破壊的な生き方が明らかにされてしまう、それをパウロは話しているのです。
そして神に繋がる人は贖われて新しい人とされている事実があるので、罪に身を売らない決意をする生き方をすれば、
人は神の命に移行した生き方を出来るのです。
その決意は救われた後日々連続続く、その人の選択なのです。
誰でもこれは日々体験している事なのです。
救われたら全て自動的に変わるのではないのです。
人は神にリモコンで操られるロボットではないからです。
それをパウロは話しているのです。
7:12 このようなわけで、律法=ノモス=トラー=神の教え、
インストラクション=モーセの五書=そのものは聖なるもので
あり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
この12節、誤解している箇所です。
パウロははっきりクリアーに神のトラー=モーセの五書とは
なんであるのか?と発言していますね。
”神のトラー=教え、インストラクション=モーセの五書は
聖なるもの、正しく、善とパウロは言っていますね。
聖なるものであるものが、同時に悪であり、無効になると
教える教えは聖書ではない事に、聖書の語る真実に基づき、
気が付いて下さい。トラーは良いもの聖なるもの正しいもの
かつ善なるもの、永遠不変と書いてある通りに受け取り
理解する。
神のトラー=モーセの五書=絶対!善!不変と書いて
あるのです。その事実神の言葉の性質の大前提を全く無視して
聖書を読んでいるのです。
だから様々に非聖書的な解説、聖書=神の言葉は終わり、
今は無効になった、破棄されたと言う別の福音が生み出され
続けているのです。
クリスチャンの世界で教えられている教えは、最初からモーセの
五書はイエシュアが否定されて、破棄されたと言う前提で語っていますが、それは100%聖書とは異なる人の思想なのです。
それはヘブライの聖書を本当には知らない、学んだことがない
イスラエルの神の契約に縁も何も馴染みがない生まれ、育ちの
異邦人=西洋人達が作り出した、聖書の真理、性質とは似ても
似つかないただの人間至上主義思想!!!であるのです。
聖書に登場する人達、預言者、使徒達、またユダヤ人達は
神のトラー=モーセの五書は永遠と言う真実を理解して
聖書の全てが書かれているのです。
世間に流通している教えが聖書を否定した教えからなっている
解説の数々であることが聖書に照らし合わせれば分かるのです。
ノモス=トラー=神の教え、インストラクションは
良いものであるとパウロは言っていますね。
戒めとはトラーに書かれた神の戒めです。
それは聖なるものであり、正しくかつ善=つまり完全に
神の意図通り=トーヴであると書いてあるのです。
神の言葉は完全と書いてあるなら、それは最初から最後まで
神の言葉は完全でトーヴ=神の意図通り何も変化がない!
その事実から聖書を読めば翻訳聖書を読んでも真意が
読み取れるのです。
続く