創造主に贖い出され、代価を持って神の中に買い戻され、
神の子らとして生きる。聖書に書かれている礼拝や、様々な教えって一体何の為にあるのか?と言う内容の全ての詳細は、
全部トラー=モーセの五書の中に書かれています。
自分の考えの中にある、自分流の考えに基づく解釈ではなくて、神が人に伝えている、教えている事は何なのか?と言う事を
本当に知ることだけが、真実を知る事に繋がるのでしょう。
何の為にトラー=神の教え=言葉が人に与えられているのか?
神が伝えている、人が神との関係を持つ上で、どの様に神と
関わり、近づき、どの様な状態に留まっていないとならないのか。聖別とは何か?神の宮とは何か?神が聖であるから人も
聖でないとならない。汚れたものを物理的にも霊的にも自分の
中に取り込んではだめ!それは神との関わりの中に汚れたものを
持ち込むことは禁じられているから。
そして人と人との関わりでも同じなのです。
関係の世界に異物、汚れを持ち込めない。
これが全部事細かな詳細がモーセの五書に書かれているのです。
その理由は?神のデザイン通りのものが、侵害され、台無しにされ別物になり、本物、オリジナルを体験出来ない損失に陥るから
です。偽物と本物とどちらが妥当?
そしてイエシュアが教えられた、語られた、生きられた、
された事の全ては、モーセの五書に根付き、モーセの五書=
父の教えからのみ全てが現れ出ているのです。
この事実はクリスチャンの世界では全く語られることも教えられることもなく、福音書には別の教えがされている内容が書かれているのだと完全に誤解した解説をされてしまっているのです。
知らないまま、トラーの教え読んでいる。でも福音書以降に
書かれているのは、モーセの五書の内容を本当に端折った形で
書かれているものであるから、その詳細はモーセの五書を書いてある通りにまず知らないと分からない様になっているのです。
アンチョコと本物の書=全部書かれた教科書では中身の解説、
詳細の量が違うでしょう?本の中身をじっくり読み理解している事と、テストのために本のタイトルと作者だけ、大体のあらすじを軽く知っているだけのとは全く理解している中身、内容が
違うのと同じ事です。
福音書以降で語られているのは、交響曲で言えば、1楽章の
途中の数小節を奏でる形式。いや歌謡曲の最初のイントロだけ
奏でると言うスタイルで書かれているのです。
気が付かないかもしれませんが、イエシュアが語られている内容で、たとえ話でも、トラーのどこかの箇所の大きな場所に基づいた内容を語っているのを、聞いている人は皆知って聞いている
のです!だからイエシュアの解説を聞いて、”生けるトラー”
”ハ トラー”とイエシュアを呼んだのです。
これが現代と古代のユダヤ人の聴衆に語られた状態とは違う事なのです。現代の異邦人の教えや解説の世界では、トラーに
書かれた内容<1つの曲の全楽章>を知らないまま、
イントロの数小節だけを聞いている状態なのです。
1つ1つイエシュアが教えられた事、された事、奇跡など
すべてモーセの五書に根付いたものである事、聖書を始めから
書いてある通りを学び、書かれている内容を調べれば、
学べば絶対に誰でも気が付かざるを得ない事実なのです。
神の言葉で明白に記載されているのは、私達が神が語る真実を
人間が作った別の教えで覆い隠されないための永遠の証拠でも
あるからなのです。
この事実を西洋ローマ教の教えでは完全に曲解されてしまい、
政治的理由から、4世紀にはローマ帝国の勅令の元、
モーセの五書を教える事、書いてある内容を生きる事、神の固有の名を唱える事、そして神の独特な記念日を祝うことを禁じ、
別物に変えてしまったのです。この人が神の言葉を変形した事実に気が付いた人は神の語る本当の真実とは何?と探りたくなると
思うのです。
この事実をクリスチャンの世界では全く見逃されているもので、神が神の言葉を変えたと言う、違う教え、不真実、フェーク情報が1世紀後半から現代まで流され続けて今に至るのです。
2000年以降は神の言葉は終わり、別の教えになったと解説し、福音書には100%トラーに根付いた事が書かれている事実を聖書から読み取らないまま、見逃して違う別の福音が語れら
続けてしまっているのです。
ローマの教えでは違う神の言葉とは別物に変えられてしまった!
人が手を加えた加工品、遺伝子組み換え、神の言葉を変えるとは遺伝子組み替え食品や人の遺伝子=性質を破損する事と同じなのです。今その的外れがリセットされる時代に入ったのです。
クリスチャンの世界では、イスラエルだけやってればいい教えさと言うフレーズが頻繁に聞かれますが、それは聖書の内容を
全く理解していない事が原因なのです。
神は神の真実を確かに明らかにされ続ける。
長きに渡り沈黙で、違う福音が流されていても、それは終わりが
来ると聖書に書かれています。
詩篇78
マスキール。アサフの詩
1わたしの民よ、わたしの教え=わたしのトラーを聞き
わたしの口の言葉=トラーで語った言葉に耳を傾けよ。
2わたしは口<神の口>を開いて箴言を
いにしえ=永遠からの言い伝えを告げよう
3わたしたちが聞いて悟ったこと
先祖がわたしたちに語り伝えたことを。
<モーセの五書に書かれた事>
4子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう
主への賛美、主の御力を
主が成し遂げられた驚くべき御業を。
<神が語られた教え=トラーは、最後の世代の時には、
再び明らかになり、最後の世代は神の教えを忘れずに、
語り継がれた事を聞き続け、神の教えを生きる事になる、
それが終わりの時代>
本物の救い主、創造主に出会った。
でも、その出会った後の生き方は、神の教える事を生きるのか
生きないのか、それは100%自分の選択であり強制では無い事が聖書にははっきりと記されています。
あなたの前に命と死を置いた。あなたは”命”を選びなさいと
あります。
そして、神と関わる場合、もし関わりたいのならと言う選択の
条件があります。
詰まり、結婚生活と同じで、自分の新しい立場を生きる決意が
必要。相手との関係に入るのなら自分の命とエネルギーを
100%傾ける決意をし、ガードし関係を保ち、育む決意があるのならと言う条件があるでしょう。その決意がある場合は、
その関係をあるべき状態豊かな関係を育むための意志、行動、
専念、打ち込むと言う意識があるかないかで、中身が全く違う
結果をもたらす事と同じです。
人間である夫が一方的に妻を支配を目的として、妻を拘束し、
縛り、監視すると言うならそれは不健全な思想、行動です。
神に対してそんな意識を持たされているでしょう?
上から目線で見張られて、厳しい律法を与えられたと世間では
教え続けられてしまっています。なんて酷い、誤解を招く
イスラエルの神に対する神像を唱え続けているのでしょうか。
でも妻を守るために言う夫の言葉を妻が聞きガードするのか。
神との場合は、100%神が人に伝える事がトーヴ=意図通りであるので、神に伝えられた通りを生きる!これが一番健全、安全な事なのです。その神の言葉を無視、拒否すれば必ず刈り取る
べき破壊的な結末が付いて来るからそれは避けるのが賢明です。
でも関係の世界はいつも自由意志です。暴君と奴隷関係では無い
からです。相手との関係に無関心、無責任な場合は、勝手に自分の思い通りに生きる。賢く神の言うことを尊重する人は、
神の言われた通りを生きるそれが最善と分かるでしょう。
レビ記の最初に書いてあります。神と本当の究極の神のデザインした麗しい関係の世界に入るのは条件がある!
神がデザインした通りを神が人に伝えるから、あなたはその通りにすればその状態に入り、ガードすれば親しい麗しい喜びの関係の中に留まる事ができますよと教えているのです。
レビ記1:1 主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、
1:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。
もし〜あなたがそうしたいなら。詰まり強制的では無いことは
ここにクリアーに書かれています。もし”わたし=神”に近づき
たいと願うなら、その場合には、わたしがあなたに伝える方法でしないとならない。神=聖なるもの=人間も同じ状態、意識ではないとならないことを教えられているのです。
だから神の宮に汚れた動物は持ち込めない!神が指定する聖別されたタホーな動物のみ、そして神が指定する他の穀物。
神の宮に持ち込めない汚れた動物は同時に人の中にも取り込めない!あなたは神の宮であるからと、その事実が書いてあるのです。クリスチャンも”天の祭司” ”神の宮”と自分を呼ぶならその定義はモーセの五書に書いてある通りのものとまず知らないと
ならないのです。
自分定義の聖別は神の目からは外れた姿になるからです。
2000年前も後も同じ!と言う聖書の事実に戻らない限り
人造、創作の教えに振り回されてしまって、何が聖書=神の教えることなのか識別が出来なくなってしまっているのです。
続く