権威の移行 ユダヤ人の手から異邦人の手へ      そして混ぜ物の教えへの移行 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書、神の言葉の教えとは全くずれている、聖書の教えとは

異なる、聖書に馴染みの無い異邦人達が作った思想なのに、

聖書=神の仰せ、教えだと勘違いされて2000年余り。

 

こんなに大勢の人が、こんなに長い年月信じているし、

やっている事は間違いである訳はない、神が認めているから

今の現状があるのだと思うのは当然、自然な発想だと思いますが、でもそれは違うものです。

 

人が芸術鑑賞するみたいに、それぞれの感じ方、受け取り方や、印象のままで良いんですよと言うものでは無い。

イスラエルの神、そしてイスラエルの神が創造された人間の

生き方は最初から最後まで同じ。

人間は途中で進化したり別物に変身しないからです。

アダムとエバと現代の私達人間がどの人種でも同じである様に

神の創造した人間は創造の最初から同じなのです。

だから神の創造した人間の性質、生き方も変わらないのです。

神が全人類に伝えている単純な真理、事実です。

 

それぞれの人種により、人により”神”は変化しないし、

変身しない。同じ1つの神であり、同じ神の言葉であり、

同じ福音なのに、受け取る人間の側で神が語っている教えとは

違う解釈、発想、別の教えを編み出し続けて来た、

それが違う教えが存在する本当の原因なのです。

 

19世紀に作られた世に出てきたデイスペンセーション神学が

創作された時よりずっと以前2世紀に、前置換神学の教えを

作った西洋教父達は、救い主を拒絶したユダヤ人達を批難し、

そして”キリスト殺しのユダヤ人”と言う思想を世界へ

伝え続けました。

 

イエシュアを信じないユダヤ人達も居たので、神は頑なな頭の

ユダヤ人を見捨て、異邦人に代表=花嫁として乗り換えた、

簡単に言うとそう言う異邦人が考えた思想発想です。

人が作った思想=置換神学と呼ばれているものです。

 

デイスペンセーション神学は、契約はユダヤ人にだけ今は有効であると、これまた非聖書的教えをしているのです。

置換神学も、デイスペンセーション神学の教えのどれもこれも、結局聖書の本質、中身に書かれている意味を知らない異邦人達が作った教えなのです。

 

この思想を土台とする教えをする人達は、全てヘブライ聖書を

正確にきちんと本当には学んでないです。

もしヘブライの書に知っていると思いながら、この様な教えを信じる場合この人間の思想にどっぷり浸って考えている。

ヘブライ語聖書に書かれた通りの意味を読めば、西洋人が

作った非聖的教えが完全に聖書に根拠の無い空想、誤りである事に気が付けます。

世界には異教の地、外国に住むユダヤ人も居ましたから、バビロンやその他の教えが混じった

記録の通り、混ぜ物の教えを取り入れ続ければ、誰でも聖書とは

ずれた考え方が出来る警告が聖書には書かれています。

 

その人間の編み出した教えを、クリスチャン達の世界では、

”神の教え”キリストが呪いの律法<婚姻契約なのに>を破棄し、新しい教えを教えに来た、律法から解放して新しい恵の時代の

救いを与えたのだ〜と唱える、聖書の事実とは異なる、

違う教えを神の教えであると本当に信じているのです。

 

最初から最後までイエシュア=救いの中身は同じ!と言う事が

見えないまま分からないなら、どんな教えでも編み出せるし、

神の言葉が何なのかと言う理解が無いから神の言葉を平気で

曲げる、終わりと言えるのです。

その教えが神の前に最悪の罪である事が聖書から分からないから

平気で正義を唱えている意識で主張し続けているだけなのです。

 

神は花婿、花嫁と言うもので表される関係を、神と人との関係で

神が人に教えている意味があるのに、人の教えに塗り替えて

考えると、神は約束に忠実、私達人間に誠実を尽くし続ける神ではなく、ダメなら別の人に乗り換える、見捨てる神と言う

メッセージになってしまいます。

イスラエルの神と言うお方の性質を別物として考えてしまって

そして人にも別のイスラエルの神像を伝え続けてしまって

いるのです。変化する神と、永遠から永遠に変わらない神が

別の性質の神、別物である事は普通に理解するべき事なのです。

 

神の言葉を変えることは、救い、贖い、神の性質と神が私達人間を決して見捨てないと言う事実、本質を伝えなくしてしまう妨害でもあるのです。

 

だから宗教の世界は一生懸命頑張らせるでしょう。

神の前に認められる、お伺いたてる、気に入られる、拒絶されないため、恵に漏れないように、怒りかわないように、祝福たくさんもらうために一生懸命訴える、頑張ると言う深層心理の領域に根付いてしまう”恐れ”を刷り込まれている。

 

だって神はどう言う理由で自分への約束変えるか怒り出すか

分からないと、この教えに基づいて考え、そう思っている

多くの人が居るのです。偽の教えに縛られている。イスラエルが見捨てられたなら、異邦人なんて関係ないから見捨てられるのはちょろいものさと考えられるからです。

 

聖書をちゃんとくまなく満遍なく、書いてある意味通りに

しっかり教えてもられえない、学んで無い場合は、

そんな事を考える事が出来てしまうのだと思います。

 

しかもこの神学は、”契約”はイスラエルから異邦人へ移行した

と言いながら、移行した教えは部分的。祝福だけが異邦人へ

行き、その他は無用、無効、生きる必要ないと言う勝手な教え。

そして呪いだけユダヤ人へ移行したと。酷い思想、発想。

呪い受ける人=ユダヤ人、ユダヤ的な事を憎む様になるのは

当然な結末です。

本当に別宗教の教えに変身させているものなのです。

現在では、聖書を書いてある意味通りに正しく学ぶ人達は皆、

これらの人が編み出した教えが馬鹿げた創作話、思想だと

聖書からはっきりと気が付いています。

 

1世紀当時のイエシュア信者はほぼユダヤ人のみでしょう。

少数の異邦人が居ただけなのです。しかも、異邦人はもともと

神の教え=トラー=聖書など知らない人達なのです。

手元に聖書がない文字が読めない異邦人達。でもユダヤ人達は

幼い頃からテモテの様に口頭でトラー、モーセの五書を家で

丸暗記するのは普通の事だったのです。

今現代でも、家に聖書があり親が先祖代々トラーをユダヤ人みたいに知り、教えられて育ったと言う人は異邦人には居ないと

思います。翻訳聖書を読んで知っている人はいても。

いや翻訳聖書さえまんべんなく読み続けている人の方が珍しいと

思います。

 

そして、隠れユダヤ人イエシュア信者達はどの時代にも存在しているのです。語られていないだけで、イスラエルで、

世界で著名なラビでさえイエシュア信じている、

でも公表したら殺されるので隠されているだけです。

 

そして本当の福音を伝え続けて来たのもユダヤ人です。

異邦人の世界では、人の教えが混じった本質が違う別の福音を

伝えられてしまって来たけれど、純粋な福音を神が残りの民を

保存し、神の言葉、約束が永遠普遍である事実を世界へ

伝承する役割を与えられたのもユダヤ人なのです。

福音はユダヤ人から伝えられたのです。

私達がメインストリームで聞いて居る教えは、純粋な福音では

ない西洋人が作り出した哲学思想が混じっている神の言葉を曲げた福音なのです。これに気が付いた多くの異邦人達は今爆発的に

増えています。ちゃんと聖書の事実だけに戻り読み続け、

考え続け、人の思想や神学を捨てれば誰でも神の言葉の永遠不変の真実に気が付ける、分かるからです。

そして宗教の教えがどれだけ人を縛り付けて来たのにも

気がつけるのです。全然違うからです。そしてトラーを否定するので、神に何を教えられているのか気が付けないのです。

危険、害も内側に取り込み、聖別の本当の意味も見えなくなる。

けがれもなんでも取り込む、なんでも受け入れるのが恵の時代と

神の言葉は終わりと本気で信じているので、教えや、警告が

決して耳に頭脳に響かないからです。

神の語る本当の羊飼いの声と人が語る宗教の教えは違うから。

そして、その教えのおかげでユダヤ人が警戒する、イエシュアに

出会うことを妨害し続けて来たのが異邦人であるのも事実なのです。逆もありますが。

イスラエルのために祈ると言うなら、まず神が1つであり、

神の家族が1つであり、神の教えも1つであると言う事実を

知らないとならないのです。違う福音を伝えるからユダヤ人が

非聖書的偽の教えを拒否しているのです。イエシュアを拒否しているのではなく西洋人が作った聖書とは異なる偽物の教えを拒絶している事実に気が付かないと見えないのです。偽の教えは、

トラー=イエシュアである事が見えなくさせてしまうから。

1世紀にいた人たちは、どうして救い主に気が付いたのか?それはトラー、預言書に書いてあるイエシュア。トラー=イエシュアである事実を目の当たりにしたからです。

 

使徒行伝を読むと、ユダヤ人イエシュア信者がメイン、

そして少数の異邦人イエシュア信者がいますが、

しかも、クリスチャンの世界で超誤解されている”パリサイ派”の

グループに招き入られている記事も書かれていますね。

使徒15章。

この章で分かることは、パリサイ派は寛容な人達であり、

異邦人を受け入れた。異邦人は神の教えのイロハを知らない、

聖書=トラーを全く理解していない、知らない人達であった

事実が書かれています。

1世紀当時、彼らユダヤ人も異邦人も一致、ハーモニーを

持って互いに交わっていたのです。しかも、現代とは違い、

モーセの五書に書かれた神の教えを皆生きて、そして

シャバット、新月、春と秋の祭りを祝っていたのです。

 

ではいつどこで一体どうして教えの中身が変わってしまったのか?と考えないとならないのです。ローマ帝国による政治的勅令

禁止、処刑。そして異邦人教父が編み出した非聖書的教えで

色々聖書、神の言葉が塗り替えられて別物に変身したから

これがクリアーな聖書から、歴史からの答えなのです。

神が変えたのではない!と言う事をずっとその事実から考えて

見ると目からウロコが音が聞こえるほどボロボロ落ちて行くと

思います。

1世紀の異邦人信者たちは、同じ契約の民、同じ契約に加えられた人達として生きていたのです。

 

 

 

 

続く