2つのグループとして決裂して行った数々の要因 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前後左右して書いてしまいますが、初代イエシュア信者達、

ユダヤ人と異邦人が何を理由に2つ別のグループに決裂して

行ったのでしょうか?

そしてその前に、2つ別の福音があると言う誤解は、イエシュアが来られる以前と以降と、神の教えや、契約、救い、贖い、助け祝福、恵などの実態が別物になったと言う最大の誤解を

しているのです。

 

太古から同じ福音!と聖書の至る所に書かれている様に、

イエシュアが実際に来られる以前も以降も、エデンの園から、

永遠の中から、神の壮大な救いの業の内容、内住の聖霊の実態、実質も何も違うものでは無い、変化も無いのです。

 

古代の人も現代の人も、人種、性別、職種に、何の区別、隔ても

無い、全く同じ救い、贖いの事実を受けていた!の事が聖書に書かれている通りに理解出来ると、西洋哲学思想に歴史線上の

タイムラインに神の業を仕分けて考える非聖書的思想は消えます。どの地点でも救い=イエシュアは同じ!あなたと、わたしとそして古代の人々が受けていたイエシュア=救いは全く同じ!

永遠から永遠に同じ。線上ではなく、円で考える。どの地点からも真ん中に繋がる。同じ距離、同じ場所。2000年前までは

冷凍でアクセス不可、2000年以降解凍されて食可能になった

などと言うものでは無いのです。

 

イエスキリストは昨日も今日も永遠に同じ!と神の言葉を信じて

宣言するなら、どうしてその神の言葉に反する教えを信じるのでしょう?

イエスキリストは歴史の中で7つの時代で別の神の性質に変身!

別の教えや別の義の基準を与えると言う教えは、神の言葉に

100%反しています。

1世紀には二つ重要な歴史的出来事が起きています。

1つは、66ー70年ADローマ帝国による神殿崩壊、

そして2世紀133−135ADユダヤ人のローマに対する反乱が

ユダヤ人と異邦人信者のメシア信者グループの間の数のバランスを変えたのです。

もっと他の要因では、異邦人信者がユダヤ人メシア信者達、

ヘブライルーツそして、シナゴグから自ら決別して離れて

行った事でもあるのです。

 

もともとは異邦人はユダヤ人にシャバットでシナゴグで読み上げられるトラーを聞き、学んでいた。イエシュア、トラーを教えられていたのです。使徒13:5,14, 42, 44; 14:1; 17:1-2, 10, 17; 18:4, 8, 19; 19:8 2。

 

ユダヤ人と異邦人2つのグループに決裂して行った理由、

きっかけがいくつもあります。

 

1)もっと多くの異邦人イエシュア信者達も増えてきて、

そして70年ADにエルサレム神殿崩壊がローマ帝国により

行われてしまいました。

 

2)今まで生きていた神の言葉=モーセの五書=イエシュアや

使徒達が教えていた教え、モーセの五書を生きる事も同時に

異邦人の中で崩壊して行ったのです。異邦人は元々神の言葉に

根付いて居ないからと言うのが一番の原因です。

元が異教神の教え、育ち、思想が全く違うからです。

 

3)ローマ帝国によりユダヤ人をローマ帝国とユダの地から追放

ユダヤ人は他の地に散って行った。

 

4)伝統的神の教えに根付き生きるユダヤ人とメシアを信じる

ユダヤ人の間に存在していた敵意、軋轢、摩擦。

 

5)太古から語り継がれた神の教え=伝統的な教え=預言者、

イエシュア、使徒達が生きていたモーセの五書を生きる人達と

そして異邦人の増え続ける信者達。異邦人の間では、既に

異物異色であるヘブライ思想、ヘブライ的生き方のトラーの教えに対しての拒絶が、異邦人信者にメシアニックユダヤ人を

拒絶する様に導いたのです。

 

トラー=モーセの五書を拒絶する態度は同時に

ユダヤ人イエシュア信者と異邦人イエシュア信者を決裂へと

どんどん導いて行ったのです。2つのグループを神が作った

のではなく、いつも人間の側での問題の結末なのです。

決裂の原因は、シャバットや神の祭りをする事に関しての事でも

あります。

多くの現代クリスチャンは、使徒行伝の中で日曜礼拝や

クリスマス、イースターが存在し祝われていたと誤解して

います。そして同時にレビ記23章にある神の祭りは現在の

クリスチャンには、有効な祭りであるとクリスチャン達は

考えていません。

しかしながら、教会史を検証する時、一般にクリスチャンの間で教えられている、考えられている事とは違う事が見えてきます。

1世紀の時代に戻ると、初代の異邦人信者達は、同じように

第七日目にシャバットを祝い、聖書に書いてある神のみやこ上りの祭り、春と秋の祭りを祝っていたのです。

 

イエシュア信者歴史家とそして4世紀のニカイア会議以降の

イエシュア信者ではない多くの歴史家達は、私達に無数の証拠を残してくれています。それは、その時代の異邦人イエシュア信者もトラー=モーセの五書を生きて、シャバットとレビ記23章の

神の祭りを祝っていた証拠を書き残しています。

 

初代イエシュア異邦人信者達も、ユダヤ人信者と同じく

シャバット、神の祭りを祝っていました。

教会史歴史家コンスタンテイノープルのソクラテス<4世紀>が

書いています。

”世界中で毎週第七日目の聖なる神秘=聖餐を祝っていた。”と。

<これはシャバットの晩餐にする2つのパンを割いて皆で食べ

ワインで祝福する儀式=キドウシュの事だと思います。>

”アレクサンドリアの信者達とローマの信者は、太古からの

伝統をするのをやめて行った。”

 

”太古の伝統”とソクラテスが話した内容は、2世紀にローマと

アレクサンドリアで行われたもので、最初の異邦人イエシュア 

信者がここから、オリジナルの神の記念日、第七日のシャバットから離れて、祝わなくなって行った事を記しています。神の命令ではなく、異邦人がローマの命令に従い、神のオリジナルの

記念日を異邦人信者が祝わなくなって行ったと言うのが

本当の事実なのです。

 

彼ら異邦人達がどうしてオリジナルの神の記念日を祝う事を

やめたのかの理由づけは、アンテオケのイグナチウスの書いた書

の中に記されている事を検証しなくてはなりません。

ユステイナとバルナバの書簡、それらの書は1世紀後半から

2世紀半ばに書かれたものですが、98-117ADイグナチウス

”ローマ帝国領域、彼らの領域の中で、ユダヤ化する事への

警告!ユダヤ人シナゴグの影響を受ける事、ユダヤ人メシア信者達の影響を受けるなかれ!”と言う警告を書いています。

 

イグナチウスは又、”もし私達がユダヤ人の教え=モーセの五書に書かれた事を実践するならば、神の好意を受ける事など出来ない。シャバットを霊的にも実際にも祝うなかれ。

シャバットで体も休めるなかれ。シャバットのために前の日に

準備したものも食するなかれ。”と言いました。

 

完全に神の教えを理解していない異邦人達が主張する神の言葉に反抗する教えをずっと教えられ続けて来た記録がクリアーに

残されているのです。異邦人達が自分達に馴染みの無いユダヤ色のある教えの全てを毛嫌いしていたからです。

その理由は、今の世の中と同じく、”脅し”によるものであった

要因もあるでしょう。ローマ帝国、お上の命令に従わないものは処刑されるからです。モーセの五書を生きる、ユダヤ的全ての

要素排除!4世紀以降は新しい教え=ローマ・カトリック教の

教えに同化賛同せよの命令には逆らう事は出来ないから。

 

イグナチウスがこの書を書かなければならなかった理由は、

この時代に異邦人イエシュア 信者達がイエシュア や使徒達と

同じ教えを生きていた!と言う揺るがないその証拠でもある

のです。だから彼らに聖書の教えを生きるなかれ!と

警告したのです。

トラーに忠実であった異邦人信者達の間に、こんな命令で

対立、不一致、葛藤があったのです。

 

バルナバの書簡でも(130-138年AD 2世紀)

日曜日礼拝の事が書かれています。そしてユダヤ人に対して、

シャバットを守り祝う事への攻撃をしています。

パウロ達がこの世を去ってそんな経たない2世紀に既にパウロが

警告した”人の哲学、騙し事の教え”を異邦人教師達によりされてしまったのです。しかも、聖書を教える西洋教父達により。

 

バルナバの書簡は、モーセの五書に対しての完全なる拒絶が

書かれている証拠としての役割をしています。

異邦人イエシュア信者達自身が、イエシュアが教えていた教えを見限る、見捨てる証拠を提示しているからです。人!神ではない人が勝手に主張し、他者に聖書の教えとは異なる別の福音を

生きるように教えていた。

”シャバットを捨てて、太陽神=ローマ帝国の主日を祝うよう

シャバットは今現在現実的な教えではない、新しいイスラエルの

役割は別の教えを生きる事である”と。

トラーをガードし祝う事を批難し”十分に耳を傾けて、罪を

重ね続け、彼らユダヤ人の契約は彼らと我々のものでもあるなどと言う罪を犯しつづけるな。モーセから受けた契約は我々のものだ”と言いながら、モーセの五書の内容を理解しないで、全て神の教えは比喩的なものとしたのです。神の言葉を生きる必要は

無い!と言う思想、教えはそこから来ているのです。

本当に考えるとめちゃくちゃな教えを編み出され、それを聖書を知らない異邦人信者は聞かされて来た事が明らかに記されて

いるのです。

”これで我々は8日目<日曜日>に喜びと共にジーザスが復活した日を祝うのである。<イエシュアが実際にいつ復活したのは

聖書には記されていない、不明。シャバットは復活の日とは

関係の無い記念日なのです。

,

神の言葉の全てを寓話、比喩化し、シャバットも比喩化し、

イエシュアの復活が8日目であり、それゆえ、第七日目に代わり

日曜日礼拝するのであるとしたのです。 

初代異邦人イエシュア信者グループはバルナバの書簡に書かれている様に、神の造られた記念日=シャバットを彼らの思想で

定義しなおし、シャバットは比喩化、寓話化したのです。

でも、聖書=神の言葉に忠実な異邦人イエシュア信者達には

この人間の勝手な教えに耐えられなくなって行った記録もあるのです。

 

続く