人の作り出した教えの嘘に気が付く事は神の言葉の真実を知る扉を開く | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀の時代のイエシュア信者達、ユダヤ人達の実際の信仰、

何を信じて、何を生きていたのか?

イスラエルの1世紀当時、イエシュア信者であろうとなかろうと

ユダヤ人は、同じ神の言葉=トラーを生きて、

そして同じ神の記念日シャバット、新月、春と秋の祭り、

そしてイエシュア同様ハヌカとプリムを祝っていたのです。

1世紀当時のイエシュア信者達は、ほとんどがユダヤ人でした。

その記録が使徒行伝です。

 

使徒行伝を簡単に通読してみても、初代のユダヤ人イエシュア

信者達とはトラーを理解していた人達です。後は極少数の異邦人イエシュア信者達はトラーを殆ど知らない、全く知らない、理解していないまま信じているので、シャバットごとにユダヤ人から会堂でトラーを教えられて行ったのです。使徒15:21

 

ユダヤ人達は当然のごとくモーセの五書を今まで通り生きていたのです。クリスチャンの世界では信じたらモーセの五書を破棄し

捨てた別の生き方をするのが神のみ旨であると本気で信じていると思いますが、それは完全に100%非聖書的思考信仰なのです。神の言葉が多数の異邦人が作り出した教えにすり替えられて行ってしまった事実を知らない、気が付かないまま、聖書の教えを誤解をしている!これが聖書、神の言葉は終わった、新しい

教えが出てきた!と誤解して考えている全ての問題の根

なのです。そして、オリジナル聖書に書かれた内容も学ばない、

いや、翻訳聖書でさえほとんど読んだ事がない、聖書に書かれている内容、正しい詳細を教えられた事が無いのが一般的なのです。これでは聖書に何が書いてあるのかさえ知らないままで

ある、聖書を読んでも誤解した聖書解釈の教えを通して間違いの解釈、思想で聖書を読み込んでいるという大問題の自体に

陥っているのです。

聖書に登場する人達は昇天以降も子供が生まれたら割礼を授け、シャバットや祭りをエルサレムの神殿で祝い、70ADローマに

より神殿が破壊されるまで、エルサレムの神殿で動物のささげ物をしたのです。毎日、毎週、そして祭りの時は神殿の中で"BBQ"

の宴会=羊のローストがされたのです。日々の中での神が与えた印を持ち、それは戸口に付けるメズサ、ヒゲ、チチイト=

衣の4隅の房などなど、トラーに書かれた生き方を個人で、

家庭で、コミュニテイで生きていたのです。

 

トラー=モーセの五書=父の教え=永遠の神の婚姻契約が廃止

されると言う発想それ自体が異邦人だけが考えることなのです。

しかもイエシュアが、使徒達が語っていた、教えていた教え、

生きていた日々の内容は100%トラーである事実にさえ

福音書〜黙示録を読んでも異邦人は気が付けない深い、

落とし穴、盲点があるのです。

 

つまり異邦人は、神の言葉に対しての絶対的敬意、尊敬、

100%の尊重が生まれつき意識が無い、教えられ無い育ちだからです。神の言葉の意味、価値、永遠不変性の事実に対して全く無感覚、だから平気で神の言葉は呪い、律法、途中で変わる、

廃れたと言う教えを平気で編み出せる、考えつく、言える、

神の言葉を否定する事こそが正義、恵の生き方の信仰であると

反聖書的教え本気で信じる事が出来るのです。そして神の言葉を呪いだ、律法だから忌み嫌う様、初代西洋教父達に早々から

非聖書的別意識を刷り込まれ続けてしまったのです。

 

キリストがトラー=モーセの五書=以前の教えと入れ替えられた

ので、2000年以降は呪いから解放された〜と言う教えを

聞かされています。

でもイエシュア=トラーと聖書には書いてあるのです。

古代の人は、トラーを知っていれば、同じイエシュアを知って

内側に同じ聖霊=神=イエシュアが住み、同じ救い、贖い、恵

祝福を得ていた事実を知れば見えます。ダビデの詩篇を読めば

はっきり書いてあるでしょう。ダビデも同じイエシュアを

知って、いや現代人よりもっと深く知り、体験し、内側に神が

住まっていた事実はエデンの園から、黙示録まで同じに、

書かれています。

聖書と人の教えが噛み合わない意味不明さ、矛盾に気が付き

ますか?イエシュアを信仰の土台と宣言するなら、

それは神の言葉=イエシュア=トラーを土台に

信仰の根拠を持っていると言う宣言なのです。

 

ここで絶対に人の教えと神の教えをすり替えてはならない事を

知っておかなくては、神の言葉、教えの真実は自分に取って

永久に闇の中に葬られてしまいます。

1世紀後半から使徒達が地上から去った後、早くもユダヤ人追放神の言=トラーの追放がローマ帝国、そして西洋司教達に

より始まってしまったのです。ユダヤ的要素の生き方は、西洋人にはまるで異物で理解出来ないからです。彼らの異教神信仰を

して来た人達には、受け入れ難い、特殊、異物。

日本人が着物から洋服へ、下駄から靴へ履き替えるみたいな。

いや逆の方が窮屈ですね。窮屈、違和感、異物に感じるものは

受け入れられない!トラーに書かれた神の言葉の意味を知らないから、どうしてそんなことを教えられているのかの意図が全く

見えない、分からない。

 

サタンの計画はエデンの園の最初から同じです。

イスラエルの神、イスラエルの神の言葉=教え、そして神の教えを生きる契約の民、その他の人々”を全部抹消しようとする事

なのです。今の世の中、神のデザインとは反対を生きる、

変形した実態を生きることを奨励し、その歪んだ生き方に

反対する力、世のルールを消そうとしている力、動きに、

気が付いている人は気が付いていると思います。全てが逆の世界。でもそれらは汚らわしく、神の前に人は受け入れては

ならないもの。

 

これから来週木曜日25日の晩に来るプリムの祭りもそれです。

エステル記に記された”ユダヤ人全殺戮計画失敗に終わるの巻”が

書かれています。神がイスラエルをユダヤ人殺戮者ハーマンの

汚れた手から、計画から救い出した記録です。

 

西洋人司教=神の言葉に根付かないもちろんヘブライ語聖書=

モーセの五書に精通もしない西洋哲学、ヘレニズム思想、

異教徒思想のまま勝手な新しい考えや教えを編み出して、

人にそれが神の新しい教えだと西洋教父達が教え始めた。

 

キリストが来た事で今までの教えは終わりと異口同音に語り

始めたのですこれこそが、神の教えを否定する大罪である事に

はっきり気が付かない限り、嘘100回=真実であると言う事に

されてしまった人が作った不真実な教え=神の言葉を否定する

嘘を信じ続けて行きます。現代聞かれ続けている教えは、形は様々、バラエテイに富んだ思想、教えが2000年近くの間で色々と出現しましたが根元は同じです。

”神の言葉を神が終わらせ否定した” ”キリスト出現で別の教えが出てきた”聖書では無い嘘と言う幻想、根拠の無い事実が土台となった教えです。

 

でもどの時代にも残りの民を神が保存し続けて、現代に至るのです。神の言葉=永遠不変=イエシュアである事をユダヤ人は

知っていたからです。そしてユダヤ人を通して、モーセの五書

=イエシュア=福音=永遠の神の教え、婚姻契約が諸外国へ

伝えられた事実があるのです。

キリストが来られた後は全く別の教えや救いが出たと言う発想

自体が聖書とは異なる思想であることに気が付かないと、

本当の福音を聞くスタート地点には立てないのです。

 

100%聖書に登場するユダヤ人信者、異邦人信者は

トラーを日常生活で変わらずに実際に生きていたのです。

イエシュアが生きて、そして教えていたのは100%トラー=

モーセの五書=父の言葉です。

 

イエシュアもマタイ5:17ー20で教えているでしょう。

トラーを破棄するために来たと思うなかれと。

破棄=違う教え、誤解した解釈をしていない、成就=正しい解釈で神の意図通りの生き方をすることと言う意味です。

 

彼ら1世紀のユダヤ人、聖書の世界の人達は、100%

モーセの五書=トラーに根付いた生き方を継続して生きています。福音が世界に伝えられるとは、イエシュアが処刑、復活されたその1点の事実だけではなく、神が取り戻して下さっていた

本物の人の性質=義とされている事実があるので、神のデザインしたオリジナルの人間の生き方に戻れる!生きれる!と言う事、

それがトラーに書かれた神デザインの人間の生き方であるのです。本物の人間の生き方を世界へ伝える事、モーセの五書を世界へ運び出すと言う意味なのです。

 

この時点で完全に誤解している事があるのです。

それは、キリストが来たから今までの呪いの縛りの教え、

律法から解放されて、別の新しい教え、なんでもありの許される

神の教えはもう生きなくて良いと言う2世紀から様々な西洋人が

語った教え、それが継続され19世紀のダービー、スコッフィールドが語った同じ教えが神の新しい教えだと教えられています。

 

でも今は律法の下に居ない、恵の下に居るとは、律法=ノモス=

罪の法則の下にはいない。なぜならイエシュアにより新しい

命に生きることに移行している、古い人は死んだ=キリストと

共に復活して、新しい人とされたからです。

全然実感体感感じないけれどね!の世界です。だから神が言う

通りの事実を信仰により受け取る以外に無い。行いをする事で

獲得出来るものでは無いと説明しているのがそれです。

 

そして、義とされた事実を信仰により受け取る人にはその時点から、歴史のどの場所、どの時間でも、どの人種であっても”恵”の中に今引き寄せられた状態に入った!それが今!信じた今は

あなたには恵の時!救いの時!の中に居ると書いてあるのです。恵の時は2000年以降初めて有効、始まったのではなく、

創造の最初から!エデンの園から同じ。神の性質は最初から

同じ、許しにとみ、恵にとみ、憐れみ、愛に富んだ神と神の口

から直接神の性質を紹介しているでしょう?神の一言一言を信仰で受けとめる事がなければ、本当にイワシの頭も信心からのごとく、誰の教えでも神の教えと錯覚して行ってしまうのです。

 

でもクリスチャンの世界では、律法の下に居ない=モーセの五書

預言書、諸書=旧約聖書=呪いの律法の下に居ないと教えられて居ますが、それ正しい聖書解説ではないのです。

そして恵の下にいる=何やっても許される、神の言葉を生きる

必要が無い自由に解放された時代が今なのだと、これまた全く

パウロの言葉を勘違いした教えを聖書だと信じているのです。

 

 

続く