ユダヤ人は長い歴史の中でヘブライの書、本当の福音を語る事、
生きることを弾圧と、処刑を持って禁じられて来ました。
ギリシャ、ローマ、そしてヨーロッパを通して。
そして、神の教え=言葉は、4世紀にローマの作った新しい宗教の教えで、神の言葉=教えが別物に作り変えられてしまいました。
そして、西洋人が作った神学の教えが爆発的にアメリカで
19世紀〜20世紀に受け入れられ、それが聖書の教えであると信じられてしまい、聖書の事実を塗り替えてしまった教えが
浸透してしまったのです。
聖書の中身は翻訳でも大幅には変えられない。だから人の教え、
神学や解説、注解が盛り込まれた聖書が造られてしまい、
聖書とは異なる教えが語られ続けて来たのです。
でも聖書だけを忠実に読み続ければ、必ず矛盾に気がつくはずです。聖書に書いてある事と、実際に自分が信じている内容に
ずれがあるからです!永遠とあるのに、一時的と信じる。
太古から同じ1つ福音と神が語るのに、人の教えは別の福音が
2000年前に初めて出てきたと主張し、神の教え、言葉を
言い換えている。
神の言葉は完全!と神が語るのに、不完全、呪いの律法と言う。
永遠から既に完成形=完全なのに、もっと完全な教えが出てこなくてはならなかった?その教え変でしょう。
不協和に気が付くけど、人の解説で丸められてしまっている。
今まで”ヘブライ語の聖書”の中身など全く聞かれる事も、
教えられる事も、語られることも全く無いまま、本当の
オリジナル聖書に書かれた真実の内容の聖書教育が全く聞かれ
ない、教えられないまま、お家元を追い出して本当の福音を
聞く事が出来なかった。
西洋人が作った、聖書では無い教えが神の言葉を塗り替えたり、
否定したり、削除したり、却下したり、
人の教えが聖書の解説に混ぜられてしまった。
神の言葉はテンポラリー、呪いの律法の束縛なので、
キリストが現れて律法を破棄、捨て終わらせた!と教えられた。
新しい教え、恵の生き方が2000年以降出て来たと言う教えが
聖書だとメインストリーム、大衆に信じられて来ました。
でも、神の言葉とは違う事を語る代償はとても重たいものです。
申命記18:19
彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、
もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを
罰するであろう。
18:20 ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、
わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。
18:21 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の
言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう
18:22 もし預言者があって、主の名によって語っても、
その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、
それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに
語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。
これは未来預言だけでなく、神の言葉を否定する事そのものが
重大な罪であることを語って、警告している箇所です。
神が伝える言葉を人間が否定し、人の教えに固執している!
その事は本当は重大問題、他者に多大なつまづきの岩を与え、
真実発見の妨害、神の真実では無い、誤りの教えに導く事を
してしまうからです。
もし神が永遠不変と言う神の言葉に対して、神の言う言葉を
信じないならば、この申命記の警告も、古い廃れた呪いの律法としてゴミ箱に捨てるのでしょう。これは恐ろしい冒涜罪なのです。でもクリスチャンの世界ではそう教えているのです。
神の言葉は呪いで廃れた!モーセの五書は呪いの律法!
矛盾に気が付いて聖書を書いてある通りに読んでみてください。
その深い闇は、神の言葉の真実の光に照らされれば消える。
神は嘘つきでは無い。イスラエルの神は永遠、完全と語られた
真実通り、永遠から永遠まで変わらず、神の言葉、約束も変えられないお方だからです。永遠なのに、あとであれは嘘!終わり!
と神は言って神の教え、言葉を途中で変えたのですか?
真理が、歴史の途中で不真実に変身?黒が白に変化する?
それは聖書ではない、違う教え、違う福音でしょう。
イスラエルの神=創造主を信じるとは、宗教活動参加し、
誰かのスローガンや目標を生きる事でもなんでもなく、
神のために自己犠牲、自分の一番大事なものを捨てたり捧げる事でも無い。全ては100%神から人へ与えられているからです。
雨が天から降るように全部受け取るだけ。その与えられた命=
自分のエッセンスの全てを、神のデザイン通りにフルに生きる!これが本当の礼拝と訳されている言葉の意味=生きる!何をしていても神の意図通りの状態で生きると言う意味でもあるのです。
そして家族、周りに置かれた人に対しての生き方に繋がる。
神が神であると認めるならば、素直に神が伝える教え、
生き方を生きたいと願望するのが造られた者=子としての
至極当然な願望なはずなのです。
それが本当の自分であり、安全であり、シャロームであり、
喜び=エデンの中に生きる状態だからです。
どうして神が言われる事とは違うことを信じているのだろう?
人の教えが神の言葉の真実を覆い隠し、神の言葉を遮り、
妨害しているからです。
そして、自分が本当は何を信じているのか、目に見える形で
現れるのが、その人の生き方、行動なのです。
ヤコブ2:14−19
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、
「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べ
なさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、
何の役に立つでしょう。
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。<はっきり書いてある。行動、生きることが
伴わない信仰は、死=命無し、神から切り離れた状態。
それが”不法をなす=トラーを生きる中身が無い者!あなたと私は関係が無い!イエシュアが言われた事と繋がるのです。>
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」
と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、
自分の信仰を見せましょう。
あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。
悪霊どももそう信じて、おののいています。
全てはこれでしょう。ヘブライの世界は全て”生きる”=神の言葉
インストラクション通りを生きるこの一点に集中しています。
異邦人、西洋人の世界は、哲学思想を語る世界です。
だから、生きると言う実際の事にどう繋げるのかが無い。
神の言葉を捨てたら、インストラクション、教えを捨てよと言う
教えに基づいたら、何をどう生きたら良いのか迷い出ている
状態なのです。
だから分からない場合は、人の作ったスローガン、宗教活動を
生きてしまうのです。リーダーの言うことイコール神のお告げと
信じてしまうから。
人の教え=神の言葉は今はもう生きる必要ない、神の言葉は
廃れた、呪いの終わった教えと唱えている通りを信じているからです。
神の言葉に関する事、この点をクリスチャンの世界では
全く誤解しているのです。
神の言葉を生きる事は、神の恵みを捨てた生き方であると言う、
それは誤解の誤解の連鎖。古い教えから解放され、新しい教え
楽な生き方=イエスキリスに罪を告白するだけで許されると言う
教え。神の言葉は永遠!古い教え、廃れた教えなど、
どの箇所にも無い!聖書の全てはイコール イエシュアご自身を
表す、示す実態!どの時代も同じ、誰にでも同じ救い=
イエシュアが永遠から用意されている、それが真実です。
そして、クリスチャンの世界は本当に神の真実、命を生きる上で
本当に狭い領域の話しかしていないのです。
だから、キリストを神と告白し、罪を告白し、許しを受けて
天国切符をもらい、他の人にもキリストを伝える。宗教活動に
熱心に参加し、伝道活動に熱心になり信者を増やすと言う教えが殆どの様である気がするのです。
他にどんな事を教えられているのでしょうか?聖書を教えないなら。
余り記憶にありません。聖書の中身を、神の言葉はもう無用!として神の教え=言葉の意味を教えられなければ、学ばない、知らないままなら、実際に何をどう日々の生活で生きたら良いのか、自己流になるより他無いです。
神の福音とは全修復、もっと広い永遠に繋がる領域の世界。
そして、”生きる”が中心。
聖書に根拠も何も無い、西洋人が19世紀に作った教えを
教えられ、その教えを唱え続けていた。
あなたの生き方=イエシュアの生き方そのものだとしたら、
それは実際に信じる者達は何を生きるのか?神の教え=神の伝える人の生き方を生きる事が神のみ旨なのではないでしょうか。
聖書に基づいたら。
エゼキエル36
25 わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから
清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
26 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
27 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、
わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
定め、おきてとは、トラーに書いてある内容を指して話しているのです。聖書は全てどこの箇所もモーセの五書=イエシュアを
指して語っているのです。
旧約聖書は呪いの律法、無用だと言いますが、詩篇は律法ですか?詩篇はトラーを生きる知恵が書かれているのです。
しかも、律法と言う翻訳は聖書とはずれた不適切な翻訳なのです。その不適切な言葉で神の言葉の意図とはずれた意識、概念を”律法”=呪い=廃れたと言う全部不真実な教えを唱え続けるたびにがっちり脳回路に太い脳回路の枝を作り続けているのです。
この箇所読んで矛盾を感じませんか?ダビデがトラーを語って
祈っているのです。
詩篇119:43 またわたしの口から真理の言葉をことごとく除かないでください。わたしの望みはあなたのおきてにあるからです。
119:44 わたしは絶えず、とこしえに、あなたのおきてを守ります。
119:45 わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。
ダビデが語る”自由”とは、イエシュアにより与えられた同じ自由
なのです。わたしの望みは、あなたのおきてにある=おきて=
トラー=モーセの五書に書かれた約束の全て!
それが現代では無意味?神の約束はあなたには全て無効になりましたという人の教えを信じているのですか?信仰の根拠はどこにもなくなってしまったと言う事です。モーセの五書=婚姻契約を捨てれば。
続く