預言者、使徒、聖書記者が神の言葉=モーセの五書を否定したり
自分の意見で神の言葉を変更したりすると言うことが、完全に
あり得ないことであると言う、基本中の基本の知識が無いまま
聖書を解説する人たちによって、聖書に書いてある事、
意味では無い、異邦人思想で聖書を解説されてしまっている事、
これが聖書を誤解して解説する原因の本当の大元、
一番の問題の根なのです。
”神の教えを退け捨てて、人の教えを生きている!”マルコ7:8
神の言葉の中で、別の教えや新しい別の契約がある訳ない
あり得ない!と言う事実を、原典聖書に基づき知らない人達が
考えた教え、解説だからです。考えたら分かる事でもあります。
人間の世界の契約でも、契約書の内容のある一部でも変更した
場合、項目に書き加えたり、削除、変更するならば、
ただちに訂正し、元の契約書の内容を書き直し、
契約を交わす両者の認証、サイン印鑑が必要でしょう。
昇天以降に新しい教え、契約が出て来たと言う仮説に基づけば、別の聖書別のトラーがこの世に存在しないとならないのです。
そしてシナイ山でされた様に、天と地を証人に契約を
取り交わした儀式が大々的に行われなければならないのです。
そんなイベント聖書に書いてないでしょう?
ペンテコステ?がそれ?それってクリスチャンの世界で呪いの
律法で現在は祝うべきではない記念日=春の都上りの祭り、
過越の祭りから数えて7週目に来る、”シャヴオート”の祭りの事でしょう?祭りの趣旨も意味も歴史の途中で変わらないのです。なぜ?それは全て神の預言的祭り、福音=イエシュアの全ての業を表して実際に歴史の中で出来た出来事と繋がっている事実だからです。変えられない!
人が神のトラーと神の時=記念日を勝手に変えるなかれと
ダニエル書に書かれている警告を今自分に言われていると
思い出してみてください。
どうして廃れた律法的呪いの祭りを祝うために、使徒たちは
過越の祭りの後もずっとエルサレムに留まれとイエシュアが
弟子に言われたの?祭りを祝うとは、シャバットを祝うと言う事も入っているのです。聖書に照らし合わせれば、人の編み出した解説は全部矛盾だらけでしょう?今の教えと今祝われている
記念日はどうして聖書のオリジナルと違うのか?と考えてみれば良いのです。本当の真相は、歴史の途中で人=ローマ皇帝が
勝手に神の言葉と神の記念日を変えたから!です。
そして、そのシャヴオート=ペンテコステでモーセの五書とは
違う新しい契約書を神から与えられましたか?
聖書の事実と事実の点と点だけを繋げれば見えて来ます。
シャヴオート=ペンテコステは”婚姻契約”=モーセの五書を
与えられた祝いの祭りなのです!それをずっと太古から今現在も
そして未来も祝う神の記念日なのです。もしモーセの五書が廃れたら、ペンテコステも意味が無い祭りになります!
ちゃんと聖書の事実だけ繋げれば非聖書的な人の教えは
全部矛盾だらけだと気がつくはずなのです。
気が付かない=人の教えに遮られ聖書だけに立ち注意深く神の
言葉が語る真実を読み取っていないからだと思います。
真実の点と点だけを聖書の事実からだけ繋げれば、
必ず神の語る言葉の事実が見えて来ます。
そして今モーセの五書を訂正、書き直した別の聖書=契約書は
この世界の中に存在しますか?
福音書以降は新しい契約書では無いです。太古から不変!
福音書〜黙示録は、永遠不変の神の契約書=モーセの五書を
解説した使徒たちの解説、コメンタリー、使徒書簡だからです。
しかも”神の言葉は完全!”永遠不変!とあるでしょう。
どうして完全なる神が、神の完全なる言葉と説明している
完全な神の言葉なのに、歴史の途中で何度も言い換えたり、
訂正し直したり、変えたり、書き直す必要があると
人間が主張するのでしょう?それとも神に造られた
人間の教えの方が、神の言葉、神の知恵に優るのでしょうか?
福音書〜黙示録は100%トラーにピッタリ合致しているのです。福音書以降には、6000以上のトラー、預言書の引用が
書かれているに、その事実に気が付かないのは、モーセの五書を
書いてある通りに学んで来てはいない、モーセの五書に書かれた
本当の意味を知らないと言う理由、それが最大の原因です。
黙示録に書いてある”愛”=初めの愛=婚姻契約書は、
”モーセの五書”事なのです。あなたは”はじめの愛”トラーに
書かれた生き方を忘れた!と書いてあるのです。
はじめと書いてある言葉は=テン アガペ=ザ アハヴァ=
THE=定冠詞 ラヴ=愛、"The Love"と書いてあるのです。
直に”モーセの五書”=婚姻契約を指して”愛!!と書いてある。
ヘブライ語に直せば、それはすなわち”ハ アハヴァ”つまり
”ハ トラー”なのです。ザ=婚姻契約=モーセの五書=”
ザ=愛”=ザ トラー=ハ トラー=文字で書かれた
イエシュアの生き方そのものを捨て去った、
生きることをやめた!書いてあるのです。
忘れた=脇に追いやる、去る、去らせる、除外する
異邦人は、”初めの愛”を忘れた!ではなく、最初から婚姻契約の”はじめの愛”=トラーに書かれた人間の本来の生き方を
信仰の最初から教えてもらってはない!!知らない!初めの愛?何?何を生きるのか分からないと言うのが本当の事実なのです。
このモーセの五書に基づき、モーセの五書以降の全ての聖書は、
モーセの五書を指して語っているのです。このシンプルな事実をまず知るの事が、聖書を読む、知る、学ぶ上での基本中の
基本なのです。
ちゃんとクリアーな頭脳で考えたら分かる事。真理は全ての人に
取って永遠の真理なのです。この人には真理でも、あの人には
違うと言うものは無いのです。
もしモーセの五書が今は無効、終わりなら、最後の審判も、
義の基準も罪の定義も何も無い!!!神が預言、約束されている神が統治する世界が来るのかも不確か!不明!!未定!神の永遠の約束、契約が吹き飛んだら、神が語る全ての根拠がどこにも
無くなったと言っている事だからです。
救い、贖い、祝福、恵、許し、愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、柔和、自制etc etc etc クリスチャンが唱える全ての言葉の意味の定義はトラーが辞書なので、それが意味不明!全部根拠の無い教えになってしまうのです。
1世紀からその通りの事が今も引き続き起きているのです。
1500年代以降も、神の創造の性質を解説する科学の世界でも、天動説から地動説へ、そしてニュートン、ダーウインと
今真実であると信じられている科学の仮説<実は実験結果など
何も真実が証明される証拠が無いのに真実だと定着している>
が出現し、その時代に並行して哲学思想の世界でも、
人間至上主義、理性主義1600-1800年代は神など要らない主義
これが理神主義に繋がるものです。なんでもかんでも”神”に
なる。これは日本人の中にある”やおろずの神思想”でも
あるのでしょう。
さて、どんな思想の影響が信仰、聖書に対する理解を妨害する
別の教え、聖書とは違う思想、教えが出てきたのでしょう?
1787年からー現代 矛盾時代 カント 反純粋理性
ヘーゲル 矛盾の中に真理を発見する 絶対的自己
マルクス、ダーウイン、ニュートン、スペンサー、フロイド、
ホルムス、19世紀にキリスト教はこれらの思想下地に影響を
受けた思想を元に様々な思想をさらに編み出して行きます。
自由主義、自然主義、ヒューマニズム、楽天主義 内在主義=
神はどんな物の中にも存在する。
話が逸れてしまうので詳しくは書きませんが、クリスチャン
信仰思想の中にも別の宗教、ニューエイジ的アプローチや思考、
思想、儀式などが歴史の中で入り込んで潜んでいるのです。
ニューエイジ思想の書を読んでもそれが聖書の教えと見分けが
つかないと思います。それらしく書いてある内容、霊的な内容、聖書の引用をたくさん交えられて知らない間に、クリスチャン
なのに他の教え、それこそ高き所=異教の神々の世界のスタイル礼拝の警告通り、異教の神々に対する礼拝方法を取り入れて
イスラエルの神に近づいていると考えているトリックが起きて
いるのです。
これは識別力、何より聖書に何が書かれているのか知らないと
人の編み出した教えは、そういった異教思想、アプローチが
交えられてるのです。
宗教の世界では、大覚醒時代がありました。
20世紀に大浸透して聖書の真理であると誤解されている
デスペンセーション神学を編み出した人の思想に多大に影響を
与えた教えなどが1800年代以降出て来ました。
神の言葉=教えから離れた思想はどの時代にも生み出し続けられて来たのです。19世紀の神学思想に影響を与えたその前段階の
思想=哲学を誰が語ってどんな内容であったのか少し記述
したいと思います。
続く