日本語の中に使われる漢字を見ると、ある漢字は見るだけで
何を表しているのか、絵画的に見えたり、共通の要素であったりする事が分かります。
氵が付いていたら、”水”に関係するとか、”山”と言う字の元の絵は山の絵だと想像出来ます。
それと同じく、ヘブライ語の言葉の元になる文字、ルート文字
を見るだけで、共通の要素を語っている事がはっきり分かりますし、別の言葉だけれど同じ発音で、同じ意味に繋がると言うものもあります。
以前に書いたものもその代表です。この様に同じ文字、同じ要素
同じ教えとして繋がる言葉がヘブライ語の中にはたくさんあります。
聖書では、神の教え=トラー、道=トラーに当たる道=ヤラ
教える=ヤレ、全部同じ意味で繋がりで表されています。
的=アーチェリー用語でトラー、ど真ん中の丸に当てる事を
トラーと言うのです。ど真ん中の丸に当たる道=ヤラ。
農作準備をする秋の雨、大地を叩き割るイスラエルの雨=ヨレ。
仮庵の祭りが始まる辺りに長い夏の終わりを告げる雨。
的=トラーを外すとハター=罪と言う言葉で表されているのです。だから、罪=的ハズれ、的=神の意図を外す事=罪と
解説されているのです。
聖書にある”これが道、これに歩め!”の道とはトラー=神の教えを生きると言う意味です。道=イエシュア=トラーだからです。肉体を取って救い主が地上に来た。肉体を取った人間として、
神に造られたオリジナルの人が生きたら、それは100%トラーに根付いた生き方であると書かれているのです。
教師=モレ ラビ イエシュア=モレ。その同じ語源の親=ホレも、トラー=神の教えを子供に教える役割をする人を意味して
いるのです。律法戒律で子供を見張り、縛り、操作、服従させ、支配する毒親をやる事では無いのです。
これらの言葉全部、トラーと言う言葉に繋がり、同じ要素、
同じ共通の意味で繋がり共通のメッセージが秘められています。
神の子として、神のエッセンス=言葉を生きることを、日々の
生活の中で教え、神の正しい道=トラーを生きる=イエシュアの
生き方を生きることを教える役割が親と書かれているのです。
聖書に書かれている教師とは、トラーを教える人を意味しているのです。教育の基本中の基本とは”神の言葉”を教える事が大前提だからです。聖書には、神の造られた全て、生きる全てが書かれているから。それを知らなければ、人は生きると言う事を本当の
意味が理解出来ないからです。
どんな分野でもそれは神が創造された世界を探求、極める事です。だから、全てに於いて神ありき、神の知恵を通して全てを
見れば、その世界の奥深く、多面的に理解が出来る事になるの
です。
ヘブライ語、どの言語でもそうですが、言葉には具体的観念が
あり、その上で初めて観念的な意味などに繋がって行きます。
まず言葉が意味する事を正確に知る必要があります。
翻訳では決して見えない、ピンと来ない、表現されない
現れ出てこないヘブライ語での独特の言語の意味があります。
出エジプト 34:6
主は彼の前を過ぎて宣べられた。
「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、
いつくしみと、まこととの豊かなる神、
34:7 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、<悔い改める
事をせず罪を生き続けるならばと言う意味>
父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。
主と2度も強調、繰り返し書いてある言葉は、イスラエルの神の固有名詞です。繰り返し”わたしが創造主である神”その性質
本質=永遠不変のお方である事が強調されている言葉でも
あります。
”ありてある方” ヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイと言う四文字で
表されている神の名=性質が紹介されているのです。
そして、神が神の発する声で宣言していると書いてあるのです。しかも、これはモーセが直接神の肉声を聞いて、神から伝えられている言葉を全部聞いている場面です。想像してみたらもっと
臨場感迫りますね。神が自らの声でモーセに神の意図を伝えて
いる言葉なのです。モーセに聞けとイエシュアも言われた意味は、モーセに伝えた神の言葉=神の言葉だからです。それを捨てよと言うのは神では無い者の声でしょう。
イスラエルの神がどんなお方か神ご自身が被造物である人間に
伝えている、知らせている、教えている、表明しています。
この名の意味だけでも、人造神学=神の言葉が途中で変わるとか
神の性質が変わるとか、2面相の神とか、そんな教えが聖書では
無いことが分かる言葉でもあるのです。翻訳で”主”と書かれて
いるから見えない真実がヘブライ語の中では見えるのです。
翻訳の主と言う言葉では現れ出てこない神の性質がヘブライ語の
言葉の中では見える違いが分かるのです。
あわれみ深く〜エル ラフン=あわれみ深い神とあります。
この言葉は、レヘン=子宮と言う言葉と同じルート文字です。
女性、母親の特性で表されている神の性質です。
もちろん、神は人間では無い、子宮も無い。
でもこの”子宮”レヘンで表されるあわれみの性質を表している
のです。必要の全て、栄養素を与え、母と直接繋がっている
一番安全である場所に居る。母の中=人は神の中に存在する様に造られている事実をも教えているのです。一番近い場所。
中です。主に在りてとは、”神の中”に居てと言う意味です。
だから、主に繋がる人は、今この世に居ながら実は天の現実=
神の中に居ると言う意味です。それをイエシュアも言われた
でしょう。ヨハネ1723
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。
母の愛、体内の子供、自分の最も近い場所に存在する我が子。
その子を自分の命同等に大事に守り、育む性質、母性=あわれみ深くと言う意味です。自分の体から子供が切り離されたら、
臍帯が切れたらそれに繋がる子も死ぬでしょう。神の命に繋がる=神の実態の命に繋がると言う事です。人が神に繋がるとは神の言葉=神の教えに繋がり生きる事で守られると言う意味でもあるのです。神の言葉は、臍帯と同じなのです。だから臍帯=神の
言葉=教えにしっかり立ち、離れて生きれない、神の教え=言葉から離れたら危険と神が教えているでしょう。神の口から出る
1つ1つの言葉=トラーにより生きるのが神のデザインされた
人の性質。
これは、イザヤ書の言葉、哀歌とも繋がってもいます。
聖書は全部同じ内容です。あわれみと言う定義はトラーの中で
詳しく解説されており、そして黙示録の最後まで神のあわれみは尽きず、変わらず、同じ性質なのです。旧約の神は怒りの神?
いいえ、神ご自身が、神は永遠から永遠にあわれみ深く、
慈しみ深く、恵みに富みと神の口から直接人にご自身の性質を
紹介しているのです。神の言葉をさえぎる、否定するのはいつも
人の作り出した教えなのです。聖書の真実では無い。
イザヤ49:14−16
シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主は
わたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるで
あろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとわたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。
哀歌3:22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
恵み深く〜 ハヌン。ラフン ハヌン ライムしますね。
カラフル、色とりどりの神の性質が目で見える言語、ヘブライ語の中で語られている絵画的表現、神の性質なのです。
恵み深く、ヘン=これは、ヘブライ語では神の目の中のキラキラな輝きです。子供を見つめる目が喜びと感動で光る、その表情
です。目の中にキラキラ、愛のスパークリングが見える。
神の私達への愛が神の眼差しから溢れ出ている。神が私たちを
見守るそのキラキラな目、その愛に満ちた瞳で人を見て守って
いると言う表現です。あなたの目の中に好意=ヘン=恵み、あわれみを得るならと訳されますが、神の愛の性質、私たち人間への思いが絵画的に見える形でヘブライ語の中では表現されている
のです。翻訳では全くそれらの意味、様子さえも見えないし、
感じないです。
愛に満ちた父が私達人にあわれみ、恵みをふんだんに降り注いで
取り囲んで下さっている。
旧約の神=怒りの神?どこの誰の教え?イスラエルの神が紹介する永遠から永遠に同じ性質、ラフン、ハヌンに満ちた神と神が
解説されている神の性質とは全く違う教えであることに聖書を
読むだけで分かるでしょう。
黙示録の最後に至るまで、神の語る真理は、同じ意味で
同じ福音、内容が語られています。預言=神の言葉=トラーに
手を加えるなかれ!と警告されていても、神の言葉は終わったと神の言葉、警告を無視して言い続けているだけなのです。
なぜでしょう?神の言葉の意味を、書いてある意味通りには理解していないからと言う基本がずれている事が原因です。
なぜ?オリジナル聖書の意味を探らず、マルキオンや、クリソストムやルターや、ダービー、スコッフィールドなどの人間が
作った聖書とは違う、ズレている教え=ななへんげの神と、
神の言葉=トラーは終わった、異邦人へユダヤ人へ別種の神の
教えが存在するetc etc etcと言う神の教えでもなんでも無い
人間が作った架空の仮説を神の言葉の真実であると
信じ込んでいるからです。
続く
怒りの神と言う教えで、イスラエルの神を誤解している。
こんな神像を刷り込まれているでしょう。怖い、怒りに満ちた
神像。。。。。神の怒りと言う言葉の意味、実態を取違えているからです。そして異教神の世界に代々生まれ育ち、染み付いている概念で考えるからその様な神学が生まれる。異邦人創作の
神学。出来てるか出来てないか常に見張り続ける怖い神。
大事な我が子を全力で守る神。危険な事を全て知らせる、
教える。安全な道、神のデザイン通りを生きることを
教える神。その全てはトラーに書かれているのに、
それを不必要だから捨てるよう、憎む様に教える教えが伝統的に世界に蔓延してしまった。
怒りの神と愛、あわれみ、許し、恵みに富んだ神とは
性質が全く異なるでしょう。人の教えを刷り込まれたので
イスラエルの神が紹介する神の性質、神像を全く歪めてしまって
いるのです。