世界が神のトラーを生きると預言されている未来がまじかに迫る イザヤ66章 ゼカリヤ14章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イザヤ66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。

新月ごとに〜新月から新月へ毎月、シャバットからシャバットへ第七日目の記念日を毎週祝う。

その言葉は、一年に渡る神の祭りを祝う事を同時に意味している表現です。神のモアデイム=定めの時=レビ記23章は全部

丸ごとでシャローム、欠けがない状態でワンセット=エハッド

だからです。それがイスラエルの神の性質だからです。言葉=神=エハッド=どこも矛盾が無い、同じ性質、実態なのです。

 

新月=父なる神の言葉=シナイ山の婚姻契約=トラーが今も有効

である事が肉眼で見える新月、新月=新しい月が始まる日。

 

新月=ローシュ ホデシュ 聖別=コデシュ

ローシュ ホデシュ חדש  聖別 コデシュ קודש

 

ヘブライ語のルート文字は共通で、意味も繋がっています。

イスラエルの神に聖別された人達=聖なると言う言葉は、

コデーシュ=神に聖別される=神の目的通り、意図通り、神の中に繋がり神の言葉を生きる人達と言う意味です。

自分勝手な人が編み出した教えを生きるのでは無いのです。

それが天の祭司=קדוש קדושים=聖なるもの=カドーシュ 

カドシムと言う言葉で表されて意味が全部繋がっています。

 

賛美歌で”聖なる聖なる聖なる”と歌っている言葉の元にヘブライ語は、”カドーシュ カドーシュ カドーシュ”と言う言葉です。

カドーシュ=聖別された人達=神の家の子ら=その印=神の

言葉、トラー=神の教え、インストラクション=婚姻契約で表されている姿を生きる=行動でその個人が本当は何を信じているのか表されるからです。

神に聖別された人=神の中に引き寄せられた人は、神の言葉=教え、インストラクション、神の記念日を生きる人と言う意味なのです。

 

人の信じている事=その人の行動、生き様を通して周りの人に

明らかに知らされるのでしょう。

神の子らは、言動不一致を生きない。然りは然り、否は否。

 

知る=契約の中の関係にあると言うのが本来のヘブライ語の聖書での意味です。

知らない=神の婚姻契約の中に生きていないから、関係無い〜

婚姻関係の中では結ばれていない=知らないと言う意味です。

 

ローシュ ホデッシュ=ローシュ=始まり、かしら ホデシュ=

月。神が時を造り、司り、神の子らは神の定めた時の中に生きる。神の中に聖別された人達は、神の時、記念日、神のトラーを生きると言う意味で書かれています。

 

新月は曜日に関わらずシャバットなのです。イエシュアが地上に居られた時、そして神殿がローマにより70ADに破壊されるまで、エルサレムでは神殿で新月、シャバット、祭りを祝っていたのです。今は神殿が無い不自然な状態ですが、変わらずに、

神の記念日を継続して祝うのです。

 

エルサレムに住まわない人は、それぞれ家のある地域で神の

シャバット、新月、祭りを祝っていた、現在も同じです。

 

そして来るべき未来、イエシュアが統治する世界は、神の記念日を神の定めた時=全世界が一緒に、人の決めた暦、人造記念日

ではなく、神のシャバット、新月、祭りを祝う日が来ると聖書でははっきり預言されています。人間は神の言葉を否定し、帳消しにしても、それは煙の様に消えて行く日が来るのです。それがぜカリヤ書の最後の言葉にも繋がるのです。

 

神の記念日はイエシュアが地上に来られた後は、呪いで廃れたと言う教えを、聖書と照らし合わせると全く辻褄が合わない事が

明らかです。神の言葉が真実であり、然り、アーメンなのです。

 

イザヤ66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。

彼らはすべての人に忌みきらわれる」。

 

ゼカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの

残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、

仮庵の祭を守るようになる。

<仮庵の祭りと言う一言で、神の記念日を全て祝う意味が

表されています。祭りを祝うとは、シャバット、新月を祝い

そして春と秋の祭りを全て祝うと言う意味なのです。今までは

イスラエルだけ、もしくは一部の異邦人だけが祝っていたのに、

来たるべき世界では、元どおり=神のトラーに全世界が戻り

神の記念日を祝うと言う預言なのです。

 

下矢印神のトラー、教えを拒絶する場合の結末も書かれています。

神の記念日や教えを生きない!と言う場合です。

14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、

エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。

 

イスラエルと同じく、エルサレムに全員が来てエルサレムで祭りを祝う事が出来ない場合、少なくとも家長=国の代表が上って

来ると預言されているのでしょう。日本の首相も神の祭りを祝うためにエルサレムに来る!

 

イスラエルでも、古代も健康事情や、経済事情、まして臨月の

女性なんて遠くから長い旅を徒歩やロバに乗ってなんて出来ま

せんから、親族を代表して男子が都上りをして祭りを祝った

のです。

 

もしも神のシャバット、祭りは2000年以降から無効と言うのが聖書の事実とするならば、この預言=預言書全ての預言も無効と言うことになります。そしてそれは2ペテロ1:20の警告

通り、神の預言は神の口から語られたものなので、人間が勝手に解釈してはならないと言う事になるのです。

 

未来に神の家=天の御国を表す神の家=神殿がエルサレムに

あり、そこに全世界の人が来て1つ大家族として神と共に喜び、

同じ神の命=言葉、教えを生きて、同じ神のシャバット、新月、

祭りを祝う事が預言されています。別の祭りや記念日ではない。

そして、世界中で、エルサレムに来ない人たちも同じ神の記念日を祝うようになる。

 

この事実だけに基づいても、トラーは終わり、ユダヤ人だけの

教え、記念日と言う教えが聖書では無い教えである事は明らかであり、神の言葉の照らし合わせる証拠が記されているので分かるのです。

 

人の教え=トラーは終わり、神の記念日は廃止と言う教えは、

聖書に照らし合わせれば全く辻褄合わないでしょう。

 

ぜカリヤ14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、

主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びと

撃たれるその災が、彼らの上に臨む。

14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。

14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるす

のである。また主の宮のなべは祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。<異教徒に豚の血、異教の神々の偶像、教えで汚された事から神の家=神の子らが生きる場所を、完全に洗いすすがれ本来の神の神殿に戻り、祝う日が来る。>

14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。

 

この最後の箇所でトドメがされています。これはイエシュアが

宮でされた事にも繋がります。この”商人”は居ないの意味

色々な意味があります。

 

商人は居ないとあります。これはマタイ21章、ヨハネ2章にも繋がっています。もっとすごい意味が書かれています。

 

マタイ 21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、

宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。

21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家と

となえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

 

”祈りの家”とは、イザヤ書にある引用をイエシュアがしています。もし、トラー、預言書が現代終わりなら、イエシュアの言葉は不真実となってしまう。人の教えを聖書に照らし合わせると、矛盾と不真実が浮き彫りになります。

 

56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く

守る異邦人は――

 56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからで

ある」。

 

福音書〜黙示録は、イエシュアが言われた様に、1世紀の信者、イエシュアが教えていたのは、パウロが教えていたのは、

トラー、預言書、諸書しか無いのです。

 

 

続く