もしトラーが呪いで終わりである事が事実なら | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

書物は、最初から読まないと書いてある内容が分かりません。

終盤の30%以降から読んでもはっきり分からない。

曲も後半最後の30%から聴いてもどんな曲なのか、作曲者が

何を意図して作曲したのか掴めない、分からない。

演劇であろうと、ドラマであろうと最後の30%から見ても

分からないでしょう。

 

聖書も同じです。途中から読んでも、書かれている内容がよく

分からないのは常識的な事なのです。しかも読んでいるのは

誰かの目、考えを通した翻訳ですから、その言葉の意味する事と、オリジナルのヘブライ語が意味する事がぴったりマッチしていない場合がある。内容の意味がはっきり掴めない、現れて来ないものがたくさんあるのです。

 

これを宗教の世界では、聖書を途中から読む様に教えてしまって

いるのです。最初の70%端折って、途中から読む様に教える。

 

最初の部分に何が、どんな意味で書かれているのか、本来の意味を解説してもらって来なかった、今も教えてもらえない、又オリジナルの聖書に書かれた意味をその通りに教えてくれる人、教師も少ない。

 

そして、そんな神の言葉なんて知らなくても霊が導いてくれるから良いのです、と言い出す。それって、矛盾しています。

どうやってイスラエルの神がどんな方か分かった、知ったのか?聖書を読んだからでは無いのでしょうか?霊だけに導かれて

全て分かるなら、なぜ神は人に”言葉”=トラーを与えたのでしょう?

真実を確認出来る、照らし合わせる絶対基準=神の言葉がないなら、悪霊に、自分の知恵、良しとする思想に導かれて生きても、神の言われる事なのか、それとも神の禁じている事なのか、白黒区別が付かないです。

 

聖書は途中から読めばいいと言う思索の影響は、”マルキオン”の思想=哲学=神学から来ています。

 

聖書は、福音書ではルカとパウロの書簡の2、3を読むだけで事足りると宣いました。マルキオンは当時の、時の異端的な教えをする人と見なされていましたが、後世に、彼の思想だけが残り、

その思想は現代に至るまで継承され、彼の教えが、神の言葉の

真実であるがごとくに伝えられてしまったのです。神がそんな

馬鹿げた事を言う訳ないと、聖書に基づき神の言葉の事実を

知らない人達により伝えられてしまった教えです。

 

”旧約聖書” ”新約聖書”と言う言葉コンセプト、そして聖書の中に彼の思想である旧約、新約と言う2つのタイトルページが挿入されてしまったのです。これを神が書いたと信じているのではないのでしょうか?人に神の永遠普遍の1つの言葉であるのに、

それとは異なる思想、誤解を与え続ける言葉、タイトルページ。

 

神が言ったのではない。神は永遠普遍の1つの書を人類に

与えたのに、マルキオン=人間が神の言葉のコンセプトをゆがめ

聖書を二つの書として分断し、そこから神の言葉の分断思想が

入ってしまった。事実に目を留める。都市伝説と、神の言葉に基づいた本当の事実を知って違いを見分ける。

 

分断、変化、言葉を変える、態度を変える神は、イスラエルの神の性質、神像と全く異なる神像です。聖書とは異なる。

 

世界は、聖書を書いたお家元達を退けて、トラーを否定する教えをする西洋異教徒思索を土台とするローマの教えを真実であるものだと1900年近く聞き続けて来ました。

 

異教徒思索を土台とする彼らの解説する、彼らの目から見る”神”、教えを聞かされて来ました。

でもその多くの部分の解説は、聖書にある真実もあるけれど、

聖書から全くかけ離れた人間哲学思想の解説がたくさんあります。

 

神の言葉を人が誤解してしまう様になった大きなつまづきの石

は、神の言葉が死滅”終焉、呪いだからイエシュアがトラー=呪いを終わらせに来たと言う教えです

神の婚姻契約=呪い?と考える異教徒達。

聖書は神からのラブレターと言った先から、神の言葉は呪いと

唱える矛盾に気が付いたら分かります。福音書以降は100%

トラーが書かれているのです。短いコメンタリー。使徒のトラーの解説です。

 

聖書を誤解して読んでいる。言葉の意味する所をイエシュアが語られた通りを知らないで読んでいる解説を聞き続けているからです。

 

でも1世紀のイエシュアの信者達=ほとんどがユダヤ人で構成されていますが、その人達はその様な異教徒西洋思索で、神の言葉が終わるなどと言う考えさえ100%持たない人達でした。

神の言葉=神と知っている人たちだからです。異教徒=異邦人=偽の神々に仕える世界で育った人達とは違う。

 

聖書ではないですが、1世紀のその道の者達=イエシュアの

フォロワーの残した書の中にイエシュアの事がたくさん書かれています。当時1世紀イエシュアは、ザ トラー=ハ トラー=

ヨハネ1章にある様に、トラーが肉体を取って地上に現れた、

生きたとあるその事実を取り、”ハ トラー”とイエシュアの事を

呼んでいたのです。違いが分かりますか?

 

トラー=終わり=呪い。イエシュア=終わり=呪いと

なるのです。聖書の事実に基づけば。もちろんこれは人が編み出した教え=嘘ですが。トラー=神=イエシュア=永遠普遍。

 

聖書=永遠普遍変化の無い神の言葉=変化の無い神が

直接自らの口を通して語られた言葉=トラー=教え=インストラクションは、時代ごとに少しずつ人類に伝えられたと語られていますが、全く違います。人は同じ神に造られた同じ性質、進化、変化しない同じ人ですから、エデンの園で神が人に直接教えた、人間の生き方はトラーです。別の生き方など無い。

 

最初の数行の中で、神が伝えようとするその全貌を書き表すことが出来ませんから、モーセの五書に全貌が記されるまで全部は

文字として書き記されませんでした。

 

その後の、預言書は、諸書は全てトラーに基づくコメンタリーです。福音書から黙示録までは使徒たちが書いた、トラー=イエシュアが肉体を取って地上に来られた記録です。

 

アダムとエバに、ノアに、アブラハムに語られた教え、インストラクションは、全て100%モーセのトラーと同じ内容です。

 

モーセの書とアブラハムが聞いた内容は同じ。

違いは、口頭で伝えられたそっくりそのままの内容をモーセは

”文書” 婚姻契約書という正式な形、人類全てに伝えられる様に

正式な契約書フォーマット形式で書かれて渡されたのです。

そこだけが違うだけです。内容は同じ。

 

エレミヤ31章の再更新された契約の内容は、モーセの五書=

婚姻契約です。ヨハネが黙示録で警告した”初めの愛”をあなたは

忘れたとあるその愛の詳細は、モーセの五書=シナイ山で文書で与えられた同じ婚姻契約です。

 

イエシュアが渡される前の過越の晩餐で言われた”新しい契約”は

モーセの五書=婚姻契約です。全部同じなのです。違う別種の契約が出現したと唱えたのは、西洋教父、ローマ帝国政府、皇帝の教えであり、イスラエルの神が言われたのでは無い。

 

贖われた人達、霊の目が開かれて、イエシュアが内側に住む人は、”トラー”を生きると書かれています。イエシュアを信じた人は一体何を生きると書かれているのでしょう?

ローマの教えは、信じたらイエシュアが教えて生きたトラーを

破棄して生きるのだと教えます。

それは、聖書の教えですか?それとも人の教えでしょうか?

 

自分で神の言葉を読み、書かれている事実を元にして考えても

分かるはずです。

”モーセの五書を信じない、否定し、捨てるなら、わたしの言うことも信じない”モーセの言う事を信じないなら、その人に何を言っても通じない、無駄になり、受け取らないだろうと言われたのもイエシュアです。モーセの五書が信じられないなら、

通じ合えない、超えられない”隔ての淵”があると。

 

イエシュアが言われた言葉でもクリアーに分かるはずです。

トラー=神の実態、イエシュアそのものなのです。

 

アブラハムに与えられた”義”とされた事実は、無償です。

これは、トラーの中に含まれている事実です。

 

でもシナイ山で与えられた婚姻契約には”条件”があるのです。

 

 

 

続く