神の言葉が永遠普遍で、シナイ山で神の口から直接出て、
モーセに伝えられた言葉通りを書き写し、神の言葉が太古の
時代から、変化せずに保存される続けて今に至っていることは、
全くもって神業=奇跡である以外の何ものでもないです。
私も神の言葉に対して軽い意識しかない、根っからの異邦人
異教徒の世界で先祖代々どっぷり異教神の意識の染み付いた
出身者でしたが、全く違う意識をもつ世界=体に染み付いて
いるヘブライ人の血を引き継ぐ人たちの態度、意識に触れて
身が引き締まる、いや知らない事にたくさん気がつかせて
もらう体験を10年前から続けています。
そして、分かることは、何も解ってなかったと言うことです。
いや知ってたつもりの事柄を、ひどい誤解を持って教えられて
来た、習ってきた事へのショック。暗い部屋に居て、明かりが
着いた時に其の部屋がトンデモないもの=神の言葉を終わり
と宣言し、神の権威を真っ向から否定する事で満ちていて、
そして其の事に、全く気がつかなかった事へのショック。
と同時に真実を発見し直すことへの喜びの体験。仕方ない。
私が自分に生まれたのも日本人に生まれたのも、神の選び
だから。意味があるのでしょう。
預言者の言葉も、詩篇、箴言などの諸書も全て、”トラー”に
付いて書かれているのです。
1世紀の人たち、黙示録に至るまでの記者全て、彼らの唯一の
”テキスト”は、トラーです。
それに付随する預言書=諸書は、トラーのコメンタリー
なのです。トラー在りきで全て聖書は成り立っている。
そこに着目すると、全部がぴったり繋がります。
神の言葉を100%絶対とする。そして、どんな偉大で
有名だと言われる人の語る教えでもそれが聖書の神の
言葉と照らし合わせてずれていたら、削除、却下。
神の言葉が歴史の途中で変わった、終わったと言う教えは、
聖書を元にすると全く真実では無い教えです。
自分で読んで、調べたらちゃんと明らかになる事柄です。
調べない、読まないから、違う教えが出たと思い込む。
どんな時でも神の言葉だけを取る。それが神に対する信仰、
信頼のはずです。人に聴きいるのか、神の聞くのか?です。
預言者は、トラーから離れて生きるイスラエルへの
警告を神から遣わされて伝えた人を預言者と呼ぶから
です。
トラー=神の言葉を書き写す人を、ヘブライ語では
”ソフェアー”と言います。翻訳では、律法学者などと
訳されていますが。 本当の語源は、数えると
言う意味です。
何を数えるのでしょうか?神の言葉の文字数です。
正確に、神の口から出た言葉を、一句一字、一点一画
変えずに、神の言葉を保存する人たち=ソフェアーです。
特別な訓練を受けている人たち。1年かかりでトラーを
書き写す作業をするのです。
そして、多勢の専門家の手を介して、間違いが無いか皆で
確認作業をちゃんとするのです。
注意深さが、まるで違う、ヘブンリー タスクです。
そうでなければ、私たちは神のピュアで純粋な言葉を
聞く術が無いと言う事になります。混ぜ物が混在した
よく見分けの付かない教えを聞いてしまう。
一点一画も変わらない。飾り文字まで、その通りに保存
されている通りに注意深く、神の口から出た言葉の一つ一つを
そっくりそのまま保存して今に至るとは、まさに奇跡です。
しかも、神の言葉が永遠普遍である事が、その言葉を探れば
はっきりと益々見えてくのです。神の真実さは永遠普遍。
その文字、言葉を知ると、どれだけ正確にそして、時代を
超えて、その言葉がそのまま保存されて来たのか
その証拠がはっきり在るのです。
これは、後にまた解説したいと思います。
時代を超えて、同じ言葉がそっくりそのまま、その時代に
使われていた言葉=発音も含めてちゃんと保存されている。
翻訳聖書は、ダイヴァース、千差万別です。特に一人訳など
は、信憑性に欠けてしまいます。
訳者の意図、解釈が加えられたり、不適切な言葉に訳されて
しまったり、無い言葉を挿入されたり、又は余計な言葉や
元のオリジナルには無い節を加えられてしまったり。
又は聖書に無い造語や、一つの言葉をあたかも別物だと
思わせる意図で、違う言葉として敢えて訳してしまう。
以前に書いた、教会と言う言葉もそれです。聖書には無い、
全くの翻訳者の造語です。クリスマスもイースターと言う
ヘブライ語もありませんし、ヘブライ聖書の中にも
書かれていません。
イースターなど異教の女神=多産の女神の名前なのです。
だから、イースターうさぎ、卵=これらも多産の女神の
シンボル。
イースター=復活祭と呼ばれますが、其の祭りは、
過越=種無しパンを食べる週の中で行われる元から
ある祭りです。”初穂を捧げる日”イースターと言う名では
無いし、神の祭りは、全部丸ごと一連祝ってワンセットの
祭りなのです。イエシュアも其の通りを祝っていた。
使徒、パウロ、聖書に書かれているイエシュア信者も
レビ記23章だけを祝っていた。シャバットを毎週第七日に
祝い、1年に渡る祭り、春から秋への祭り、新月も。
そしてパウロにも神の祭りを、種無しパンの意味の状態で
祝おうと諸外国に散っているユダヤ人中心のイエシュア信者
の群にもちゃんと教えているのです。何も変わらない。
何で聖書に無い、別の祭りの名前が聖書に加えられて
しまうの?と調べればて見れば、その原因は、元異教の神々の
信仰者<ローマ皇帝>が、ヘブライの神の世界に、挿入して
色々と神の言葉、神の記念日を変えてしまった事実は、
明らかに突き止められます。
翻訳用語は、一貫性が無いと言う欠点があります。
まるで別もの教えが出現したかのような、違う意識を
人に植え込んでしまうのです。そして、それに気がつく
事が出来ないのです。二つの別の教えだと始めから
ローマ宗教神学の教えを教えられてしまうからです。
そしてヘブライ語聖書で書かれた元の言葉を、探らない、
探る術がなかったからです。現代は違います。
続く