聖別 偶像の神々の習わし しきたり 生活習慣の混ぜ物からの決別 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュア昇天後、何世紀後にも、イエシュアを信じる
人たちは、クリスマスなる祭りを祝った形跡がないのが
事実です。調べてみれば分かりますが、

聖書にクリスマスなる記述、または祭りが信徒によって祝われ

た記録は書いて無いと言うのが事実です。

クリスマスという名前が発案され、ペーガン=異教の神々の

祭りの代替えとして”クリスマス”と云う祭りを、昇天後、

3、4世紀後に始めて作り出された祭りごとからです。

これが今の様な形で世界に浸透し、盛んに祝われ、

伝統としての揺るぎない位置を占める祭りになったのは

本当にここ何世紀近くです。

 

だから、クリスマスは聖書に記述がないのです。

使徒もパウロも1世紀の信者も体験しない、知らない記念日。

レビ記23章にある、神の定めた神の記念日、神の仰せにより

祝う祭りではないからです。

 

真実の礼拝と異教の神々の祭りとの融合=混合主義は神の性質

とは異なるものです。

現代のカハール=イスラエルの神に呼び出された人々の群れの

中で、異教の神々が背景にあるけれど、これらを自分たち流に

清めて、改めて、改良して、意味付けをキリスト関連のものに

して、主への礼拝、または伝道の目的のために使えば良い

じゃないか?と考えるのは、ヤロベアム王的発案=人の道です。

 

現代では、そのような異教の要素は衰退して、見えてないから

別にどうって事ない、いいじゃないのですか?と思う。

そう言う問題なのだろうか。神がその事に関して、何と考えて

いるのか、言っているのか?を、聖書に基づいて何よりの

根拠にし考える必要があるのです。

 

ほとんどの人々<信者>にクリスマスって何と聞けば、

シンプルな答えが戻ってくるはずです。

 

クリスマスは”キリストの誕生日だよ”と。聖書に記されている

内容、記述を注意深く確かめないからなのです。人間の作り

出した伝統の世界の話を語っているだけ。

そして、その日が人造仮想の救い主の誕生日、又は、古代の

異教の神々の祭り、ミトラ教、ブルマリア、サタナリアなどの

祭りが背景だと知った後も、現代では異教色は消えたと考える

から、自分たちはそう言うつもりでやっているのではないの

だから、別にいいんじゃないの?と考える。それに世界的に

浸透しているしねと。

 

そして、異教の神々=サンタにこの日を乗っ取られ、サンタが

クリスマスの注目、主役の座に座り、キリストが消されて

しまっている!と言う訴えを聞きますが、それは無理なこと、

逆の事ではないでしょうか?お家元=異教の神々が初めに

在りきで、お家元がお家元の主役の日=誕生日の主役の座に

座り続けるのはごくごく当然の事なのです。

後からの偽物の主役、付け足し、こじつけ、ハリボテは

崩れるのです。

 

それともこうではないでしょうか?神は、異教の神々の

シンボルと祝いの祭りをご自分の礼拝のために、混ぜて、便乗

して融合、同化、一体化して、あらゆる用途に使ってくれて

多いに結構、あなたたちは大した発案をしたものだとでも

言われるような神が、イスラエルの神なのでしょうか?

 

もっと踏み込めば、私たちがクリスマスのシンボルは、異教の

神々の意味合いが失われ、異教信徒のつながりも薄れたのと

思うけれど、神の前、神の目に、本当の”根本”の根=本当の

バトルが隠れている事をすっかり忘れてしまうのです。

霊の戦いとは、ピュアなイスラエルの神の子らの生き様が

異教の神々のものと融合していくこと、変形、同化して行く

事への抵抗を、霊の戦いと聖書では書いてあるのです。

異教の神々への抵抗=ハヌカに繋がる事でも在ります。

全くそれなのです。ミックス、同調、融合、同化、迎合又は

一体化。

 

以前の旦那の所持品を一部取り入れ改造、修理して、本物の

主人の家に嫁いだ後にも、さらに以前の風習、習わし、

しきたり、生活習慣、シンボルの一部を持ち込み続け、

使い続けてしまう。それが高き所として聖書に書いて

あるのです。

 

以前のテナント=前の主人の家のしきたり、風習、習わし、

祭り、生活習慣、ライフスタイル、シンボルを持ちこむ。

特に異教の神々の宗教、哲学、思想を持ち込んでしまう。

統合、融合とは、混ぜる、ミックスする事、イスラエルと

異なる事を混ぜる事を指して聖書で書かれているのです。

 

最初の最初から、神は人に対してこの事を厳重警告、

掲示しています。

預言者のメッセージはまさに、これです。

融合、同化、異教の神々の生き様を取りれて、トラーを捨てて

生きる人達への警告。そして預言者は、余計な事を言う、

うるさいと煙たがれ、殺されたのです。

その結果がイスラエルのエグザイルなのです。

 

神は人に明らかに知らせているのです。命の木からだけ食べよ。

神は、神の言われた事と、他の物を”ミックス、混合、融合、

統合”を受け入れる事が出来ない事、はっきり宣言しています。

マタイ7:19-24

”わたしの言葉を聞いてそれを行う者は、岩の上に家を建てた

賢い人”と書かれています。わたしの言葉とイエシュアが

言われるのは何の言葉のことを指して言っているのか

分かればクリアーに理解できます。

わたしの言葉=父から託された言葉=トラーです。

 

聖別の中心のコンセプトは=セパレーション、分かたれると

いうことなのです。何と分かたれるのか?

この世の異教の神々の一切から離れ、、イスラエルの神の上へ

分かたれる事を、ヘブライ語聖書では聖別と言う意味で

書かれています。

イスラエルの神と、そうではないものとの”別離” ”区別”が聖別

のヘブライ語の本当の意味なのです。自分定義の”聖別”にして

しまうと意味が違うものになってしまうのです。神の言われた

通りに照らし合わせる。

 

シャバットが創造の始めに”分かたれた”日として、造られた

事に繋がるのです。

神がイスラエルの子ら~神の子らに用意してくれた”世とは

一線、境界線を引く”印であるのがシャバット=神の記念日

なのです。

そして神の記念日の全ては、福音を網羅する全てが凝縮され

ているのです。

異教の神々に属する人から分かたれた印を与えてくださった。

 

アブラムが呼び出され、異教の神々の地から出たのは、

イスラエルの子として世界の中で際立ってユニークで特異な

印が与えられた意味、目的でもあるのです。

他の異教の神々の印と。分かたれている。神から契約を与えられ、

神が保存しているヤコブの家族=神の子らとされた人たち。

神が選んだ人々、ヨセフのとりなしにより神に選ばれた

人に勧告、注意を呼びかけているのです。分かたれている

特別な愛を与えられている。いつも問題は同じです。

イスラエルの神の名=実態に連なる人を神が取り出している。

そして彼らを聖別している。神ご自身の上に。神の家には異教

の神々の泥、汚染物、ゴミを持ち込んでは上がる事が

できないからです。

 

今日の東京は寒い。いつものコースの築地に来たついでに

目に付いた建物に来たら、ここは築地本願寺。

 

中は偶像ときらびやかな装飾。部屋全体が線香の煙と匂いで

充満していました。子供も大人も偶像に向かって祈る。

 

ステンドグラス。

このお寺の歴史が張り出されていました。
1935年4月に行われた落成式。
十数万人が参拝したそうです。広き門より入ること。
でもこの世に在って、地の塩、世の光はイスラエルの神の
真実を生きることに徹することを、神から仰せつかっている、
任されていることはクリアーです。
 
いつか、この異教の神々に仕える世界が、オセロの駒が全部
ひっくり返るごとく、今度は全世界がイスラエルの神の祭りを
祝うためにエルサレムに上ると書いてあります。
全世界中の人、全員は無理です。でも世界の国家の代表が
エルサレムに上り、神の祭りを祝うことをする日が来る事が
はっきりと預言されている。
イエシュアが来られた後は神の家は無用と考える、西洋宗教の
教えとは異なることが聖書には記されています。
神の家は、地上でも人でも=宮=神の実態が宿る場所。

だから異教の神々の物とは交れない、混ぜられない。