正しい情報に触れ自分の目で確かめることの大事さ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1列王記12章の続きを書く前に、書いておきたい事があります。

 

正しい情報提供がされることがどれほど大事な事であるのか。

どうして絶対に必要、大事なのか?それは、神の創造された

この世界と、神の言葉はぴったりマッチしていて、そして、

物理的でも目に見えない世界でも、真実が語られない場合に、

それは”神の本当の姿、性質に繋がれていかない、導かれて

いかない、出会えない、神の実態に繋がらないからです。

 

ノーベル賞をもらうような人達の発見は、”真実”のみを繋げて

行った”研究”の成果でも分かる通り、途中に不真実な

因子があったら、真実の新発見には辿り着かないのです。

 

部分盲目を作り出せば、開かずの間が出来てしまう。

神の真実、実態を知る無数の扉を開ける事が出来なくなる。

簡単に言うと、相手を誤解したまま、相手の事を本当には

真実には知る事が出来ない、神のデザインした本来の深い関係

に入れない、体験できない、何か隔たり、幕がかかった

状態になってしまう。

 

真相の全貌が見えてこない、つまり的外れな場所、ボーリング

のレーンで言えば、ガーターにハマって、ピン=的に当たる

事の出来るレーンに出て来れなくなるようなそんな状態を

作り出してしまうからです。

 

真実を知るためには、真実な根拠、情報に触れる必要がある。

何かを知りたいと考える時に、必ず正確な”手がかり”が

必要なのです。

 

そして、自分の頭でじっくり考え続けて、真実を繋げて行く

事が出来るように。人に聞いてだけのみ、分かるという事

ではなく、自分でもしっかり考え、調べて、探って行ける

手段が欲しい。

 

”批判、裁き”が目的ではないのです。そう受け取られて

しまったら残念ですが。一番したくない事は、イエシュアが

言われた通り、”父の実態”を歪めてはならない。

創造主、在りてあるお方の実態を、偽証してはならない。

神の言葉を曲げてはならない。捨ててはならない。

一点一画も付け足し、削除してはならない。

”わたしの顔の上に別の顔を置いてはならない”

異教の神々の教えと混じってはならない。

信仰は、自分の判断と動機が基準、根拠ではなく

神の言葉だけに基づくこと。

 

だから、聖書に書いていない、人が作り出した教えという

お面を被せて、”イエシュア”を人に伝えるようなことは

絶対にしたくないとそれだけなのです。

真実だけを、語りたい。

 

わたし=個人のですが、多分世界主流だと思うのです。

私が聞いてきた教えは、神の言葉と言うより、人間が作った

宗教の教え、それを土台にした神学がほとんどだったと

気がつきました。

自分が混ぜものの教えに浸っていた事にも気づけず、そして

異教の神々の名で呼ばれる慣わし通して、イスラエルの神を

礼拝し、異教の神々の名で、”アシュラさまおめでとう〜”

などと言わされても、それが異教の女神の名、由来で

ある事実にも気が付けなかった。

 

日本の社会では、”別な意見”を言うとイコール、個人批判と

受け取られるんだよと友人に教えられた事があります。

そうですね。まあ反対意見を言われれば、ムッと来ると

言うのは分かります。人格否定されたごとくに受け取られる。

 

それも文化。日本人はアメリカ人のように、はっきり断らない。

”検討します” ”考慮します” 日本人なら通じる、

ワンクッション置いて、遠回りに断るような、言い回しが

あるように、本音と建前の世界なので、

そんな文化の違いもあるでしょう。

英語圏の世界では、堂々と誰かの学説や、神学の”誤り”を

論文で指摘、発表しています。相手を潰す、批判する事が

目的ではない。正しくない情報が世の中に流されないためには

大事なことだと思います。それは、読む側に取っては

ありがたい情報、その根拠の出どころがどこにあるのか?

その情報は正しいのか、判断できる要素、材料を提供される

からです。目的が違うのです。放射能が漏れていたら、

そこは危険だと知らせてほしい。

 

ユダヤ人の世界など、2人出くわせば、3つの意見がある

というように、デスカッションは普通の事。

 

批判目的ではなく、契約の命に書かれている内容の”アハバ”=

愛に基づいて、正しい情報が開示される必要があると

思うのです。

 

文字にする場合には、直接会って話すのとは、大分違う

印象を与える、受けるものです。

なぜなら、お互い表情が見えないからです。

直接会って話す場合でも、100%自分の意図が相手に、

又は相手の意図を自分が理解するかと言えば、

そうも言えないのです。

 

人がどう生きるか、どう考えるかに対して、”こうすべき”

”ああするべき”と誰かに指示、命令はしてはならない事。

親しい家族の間では、それが出来ますが、それも押し付けは

出来ない。自分の育てている幼子には言えますが。

一人一人が、神の前で、神の言葉の中で、神と対話して、

神が何を言われているのか、正確にキャッチし、その上で

自分が何をどう選択して生きるのか?その判断を

神の意図通りにする、それだけが出来ることなのです。

だから、それには神の言葉に書かれている事が、本当の意味で

分からなければ、どう生きて良いのかに繋げられないのです。

 

世の中は、様々な情報が反乱しています。

その時に、その情報が真実であるのか、ないのか、

その情報の出どころ、根拠を探る必要が出て来るのです。

 

その教え、情報の出どころは、”人の作った仮説”か、

”只の人の意見”か、それとも証拠、裏付けのある”事実

であるのか?を調べないとならないのです。

 

イミグレの検閲機関のように、ちゃんとチェックするのか、

それとも、無点検でそのまま素通りしてしまうのか?

自分が真実だと信じて疑いもしない内容が、本当かどうなのか、

再点検しなくてはならないことがたくさんあるのです。

 

ネット社会になり、世界中同時間に、どの場所に居ても、

同じ情報にアクセス出来る時代になりました。

無数の情報がネット上に氾濫しています。

嘘は大きければ大きいほど分からないというように、

それほど、社会全体で”偽情報=仮説”を流したら、

簡単に騙されてしまうのです。しかも、長年、

何世紀にも渡って浸透した偽情報を覆すのは

本当に至難の技。一人一人が真実に気がつくには

たくさんの真実な情報と、事実だけに基づき、

自分の頭で考え続けると言う作業をし続けなければ

ならないからです。疑問に思わなければ、人は調べる

事も始めない、考え始めることもしないからです。

 

 

続く