1列王記12章の続きを書く前に、書いておきたい事があります。
正しい情報提供がされることがどれほど大事な事であるのか。
どうして絶対に必要、大事なのか?それは、神の創造された
この世界と、神の言葉はぴったりマッチしていて、そして、
物理的でも目に見えない世界でも、真実が語られない場合に、
それは”神の本当の姿、性質に繋がれていかない、導かれて
いかない、出会えない、神の実態に繋がらないからです。
ノーベル賞をもらうような人達の発見は、”真実”のみを繋げて
行った”研究”の成果でも分かる通り、途中に不真実な
因子があったら、真実の新発見には辿り着かないのです。
部分盲目を作り出せば、開かずの間が出来てしまう。
神の真実、実態を知る無数の扉を開ける事が出来なくなる。
簡単に言うと、相手を誤解したまま、相手の事を本当には
真実には知る事が出来ない、神のデザインした本来の深い関係
に入れない、体験できない、何か隔たり、幕がかかった
状態になってしまう。
真相の全貌が見えてこない、つまり的外れな場所、ボーリング
のレーンで言えば、ガーターにハマって、ピン=的に当たる
事の出来るレーンに出て来れなくなるようなそんな状態を
作り出してしまうからです。
真実を知るためには、真実な根拠、情報に触れる必要がある。
何かを知りたいと考える時に、必ず正確な”手がかり”が
必要なのです。
そして、自分の頭でじっくり考え続けて、真実を繋げて行く
事が出来るように。人に聞いてだけのみ、分かるという事
ではなく、自分でもしっかり考え、調べて、探って行ける
手段が欲しい。
”批判、裁き”が目的ではないのです。そう受け取られて
しまったら残念ですが。一番したくない事は、イエシュアが
言われた通り、”父の実態”を歪めてはならない。
創造主、在りてあるお方の実態を、偽証してはならない。
神の言葉を曲げてはならない。捨ててはならない。
一点一画も付け足し、削除してはならない。
”わたしの顔の上に別の顔を置いてはならない”
異教の神々の教えと混じってはならない。
信仰は、自分の判断と動機が基準、根拠ではなく
神の言葉だけに基づくこと。
だから、聖書に書いていない、人が作り出した教えという
お面を被せて、”イエシュア”を人に伝えるようなことは
絶対にしたくないとそれだけなのです。
真実だけを、語りたい。
わたし=個人のですが、多分世界主流だと思うのです。
私が聞いてきた教えは、神の言葉と言うより、人間が作った
宗教の教え、それを土台にした神学がほとんどだったと
気がつきました。
自分が混ぜものの教えに浸っていた事にも気づけず、そして
異教の神々の名で呼ばれる慣わし通して、イスラエルの神を
礼拝し、異教の神々の名で、”アシュラさまおめでとう〜”
などと言わされても、それが異教の女神の名、由来で
ある事実にも気が付けなかった。
日本の社会では、”別な意見”を言うとイコール、個人批判と
受け取られるんだよと友人に教えられた事があります。
そうですね。まあ反対意見を言われれば、ムッと来ると
言うのは分かります。人格否定されたごとくに受け取られる。
それも文化。日本人はアメリカ人のように、はっきり断らない。
”検討します” ”考慮します” 日本人なら通じる、
ワンクッション置いて、遠回りに断るような、言い回しが
あるように、本音と建前の世界なので、
そんな文化の違いもあるでしょう。
英語圏の世界では、堂々と誰かの学説や、神学の”誤り”を
論文で指摘、発表しています。相手を潰す、批判する事が
目的ではない。正しくない情報が世の中に流されないためには
大事なことだと思います。それは、読む側に取っては
ありがたい情報、その根拠の出どころがどこにあるのか?
その情報は正しいのか、判断できる要素、材料を提供される
からです。目的が違うのです。放射能が漏れていたら、
そこは危険だと知らせてほしい。
ユダヤ人の世界など、2人出くわせば、3つの意見がある
というように、デスカッションは普通の事。
批判目的ではなく、契約の命に書かれている内容の”アハバ”=
愛に基づいて、正しい情報が開示される必要があると
思うのです。
文字にする場合には、直接会って話すのとは、大分違う
印象を与える、受けるものです。
なぜなら、お互い表情が見えないからです。
直接会って話す場合でも、100%自分の意図が相手に、
又は相手の意図を自分が理解するかと言えば、
そうも言えないのです。
人がどう生きるか、どう考えるかに対して、”こうすべき”
”ああするべき”と誰かに指示、命令はしてはならない事。
親しい家族の間では、それが出来ますが、それも押し付けは
出来ない。自分の育てている幼子には言えますが。
一人一人が、神の前で、神の言葉の中で、神と対話して、
神が何を言われているのか、正確にキャッチし、その上で
自分が何をどう選択して生きるのか?その判断を
神の意図通りにする、それだけが出来ることなのです。
だから、それには神の言葉に書かれている事が、本当の意味で
分からなければ、どう生きて良いのかに繋げられないのです。
世の中は、様々な情報が反乱しています。
その時に、その情報が真実であるのか、ないのか、
その情報の出どころ、根拠を探る必要が出て来るのです。
その教え、情報の出どころは、”人の作った仮説”か、
”只の人の意見”か、それとも証拠、裏付けのある”事実
であるのか?を調べないとならないのです。
イミグレの検閲機関のように、ちゃんとチェックするのか、
それとも、無点検でそのまま素通りしてしまうのか?
自分が真実だと信じて疑いもしない内容が、本当かどうなのか、
再点検しなくてはならないことがたくさんあるのです。
ネット社会になり、世界中同時間に、どの場所に居ても、
同じ情報にアクセス出来る時代になりました。
無数の情報がネット上に氾濫しています。
嘘は大きければ大きいほど分からないというように、
それほど、社会全体で”偽情報=仮説”を流したら、
簡単に騙されてしまうのです。しかも、長年、
何世紀にも渡って浸透した偽情報を覆すのは
本当に至難の技。一人一人が真実に気がつくには
たくさんの真実な情報と、事実だけに基づき、
自分の頭で考え続けると言う作業をし続けなければ
ならないからです。疑問に思わなければ、人は調べる
事も始めない、考え始めることもしないからです。
続く