只の人の解説、又は伝統的な教えは、聖書の翻訳、いや
”ヘブライ語聖書”の中にも見る事が出来ます。
翻訳聖書でも”主”と書いてある言葉があります。
英語だとその文字を太文字にしています。
この言葉は、ヘブライ語の4文字יהוהです。
これは、”ありてある”過去、現在、未来も同じ業、同じ
性質であると言う意味を表す名でもあるのです。
ブッダとか、アラーとか他の神々には特定の名がありますね。
それなのです。”イスラエルの神の”特定の固有名詞、名は
この4文字で表される名なのです。
このヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイの4文字のヘブライ子音で
表されている”神の名”を、その通り名の通りに発音しては
ならないと、神が言われたと思っている事などなども、
まるで人の言い伝えの”伝統”なのです。そんな事聖書に
書いてないです。イスラエルの神がモーセに御自身の名を
伝えた時、四文字を、ヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイと
発音したのでは無いのです。
誰かと親しい関係にある時は、”その人の名”を直接呼ぶに
決まっています。神が、神の特定の特別な名を発音する事を、
禁じたのではない。
歴史の中で、人間が、神の名を発音する事を禁じたから
そうなって、今に至ると言うのが事実です。
ヘブライ人のトラーを書き写す”書写”達が、それをどう
変えたのか?と言うと、発音文字記載を変えてしまった
のです。四文字の下に書く、マゾラ テキスト=発音記号で
ある母音を一つ外して書く、別の母音を書く。
しかもその読み方は、”主”=アドナイと言う全く別の”名詞”
の発音で読んでいるのです。
詰まり、”イエホバ”と書いてあるのに、アドナイと言う別の
発音で読んでいると言う事です。
ジェホバ、エホバ、ヤーウエなどと言う読み方で発音されて
もいます。
これは、歴史の中で、神の名を発音出来ない様な迫害が
あったから、公の場所でユダヤ人達が神の特定の名を
発音する事が出来なくなったと言うのが事実なのです。
2世紀にユダヤ人ラビが、”トラーの巻き”に巻かれて、火に
くべられ処刑された。ローマ政府が神の御名を直接発音する
事をユダヤ人に対して禁じて、公の場所で見せしめに処刑した
いきさつが大きなきっかけでした。命奪われる位なら、
神の名を発音するを止めよう、身の危険回避が最優先。
自分達の間だけでは、密かに神の名を語り、公の場所では
別の発音で、神の名を語ろうと言う対策を編み出した。
それが事実です。
身の安全を守るには、ローマが強要する宗教に迎合した方が
まずは安全だとして、神の言葉を捨てる事に同意した事で、
異邦人達は別の教えへ乗り換えて行った歴史の経緯がある
のです。神が神の言葉を終らせたのではない。
人間、ローマ政府が神の言葉を生きる事を禁じて、
それを生きる人々に重税、迫害、死刑を課せたのです。
長い歴史の中で、ユダヤ人達は、トラーを生きる事で、
どれだけの迫害、処刑にあって来たのか歴史の史実を調べる
と真相を知る事が出来ます。カトリシズムに改宗しなければ、
処刑されて行ったのです。
ユダヤ人達が抵抗していたのは、人の作り出した宗教を取り、
神の言葉=契約を捨てる事、詰まりトラーに書かれた
ライフスタイルを捨てる事に抵抗しているのです。
そして、ローマが解説する”救い主”がトラー、預言書に
書かれている救い主では無いと、聖書に照らし合せて
考えているからです。彼らも今も救い主が来るのを
待っている。辿り着く”結末”、結論は同じです。
同じ救いを知っているのです。トラーに基づいて。
ただ、2000年前に来られた救い主が、人間が編み出した
教えのトラー、預言書とは別の仮面を被った解説をされて
しまっているので、その救い主は、別の宗教の教祖様だから
違うでしょうとトラー、預言書に基づき、認識出来ないから、
人造宗教の仮面を被った救い主を拒絶しているだけなのです。
プロテスタントでも、カトリシズムに改宗せよ、又は別の
宗教に改宗せよと言われたら、抵抗するのではないかと
思うのです。違う教えだと思う事に人は迎合出来ない。
自分の信念を変えない限り、真実ではないと思う事、
信じても無い事を生きれないからです。
契約=神の言葉を受け取った代表者であるイスラエルが、
その神の言葉=契約を捨ててはならないと神から命じられて
いるのです。たとえ、異邦人が神の言葉=契約を捨てても
イスラエル=大家族である長男がそれをする事は出来ない。
トラーを捨てよ、トラーに書かれているヘブライ色を捨てよ
神の祭り、シャバット、契約継承の印である割礼や、
食生活やライフスタイルを全部捨てよとローマ政府が命令
したから、トラーのライフスタイルを生きる事を禁じられ、
トラーを頑に死守しようとする人達を処刑したと言う事と
内容は同一なのです。
海外に住むユダヤ人達も、ユダヤ人である事で差別、迫害
されるから、ユダヤ人である事を公共の場では引っ込める。
でも家では、ユダヤ人のライフスタイルを送ると言う事は
今でもあるのです。大分世界の流れが変わって来ましたが。
異邦人が、”イスラエルの神の名”=実体、言葉を愛して
求めて生きる事が起きているからです。
人が神の言葉通りを生きる事を禁じた。神が途中で
神の言葉を変えたのでは無い事実に戻れば見えて来ます。
これは、別の大きなトピックなので今この記事では
詳しく書きません。
その他多く、様々な只の伝統が存在し、それが神の言葉の
真実だと思い込んでいると言う事をまず知る必要が
あるのです。
神の言葉だけに立って、神の言葉に基づき検証し、色々と
不明な点を、”何でだろう?”と疑問に思った方が良いのです。
疑問、質問は、考える事、調べる事、追求する事に繋がり、
その行動は、真実だけを繋げて、たぐり寄せて行けば、
必ず神の言葉の真実に至る発見に辿り着くからです。
子供の様になって”神を求めよ”とは、子供とは果てしない
”知りたい願望”があるからでもあります。純粋に神を求める。
純粋に、欠け目なく物事を見て、疑問に思う事を聞く。
神の真実=主の御顔=実体を知りたいと切望するその
追求精神を失ってはならないと言われたのです。
ある聖書箇所を読んで、翻訳読んだら、辻褄合わないのに
何となく分った様なつもりになっているものがあるのです。
例えば、マタイ23:1-3です。
1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って
言われた、
2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座に
すわっている。
3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って
実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。
彼らは言うだけで、実行しないから。
普通に読むと不可解、意味不明な箇所です。
続く