分っている様で実は解説不可な意味不明な箇所 マタイ23 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

只の人の解説、又は伝統的な教えは、聖書の翻訳、いや

”ヘブライ語聖書”の中にも見る事が出来ます。

 

翻訳聖書でも”主”と書いてある言葉があります。

英語だとその文字を太文字にしています。

この言葉は、ヘブライ語の4文字יהוהです。

これは、”ありてある”過去、現在、未来も同じ業、同じ

性質であると言う意味を表す名でもあるのです。

 

ブッダとか、アラーとか他の神々には特定の名がありますね。

それなのです。”イスラエルの神の”特定の固有名詞、名は

この4文字で表される名なのです。

 

このヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイの4文字のヘブライ子音で

表されている”神の名”を、その通り名の通りに発音しては

ならないと、神が言われたと思っている事などなども、

まるで人の言い伝えの”伝統”なのです。そんな事聖書に

書いてないです。イスラエルの神がモーセに御自身の名を

伝えた時、四文字を、ヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイと

発音したのでは無いのです。

 

誰かと親しい関係にある時は、”その人の名”を直接呼ぶに

決まっています。神が、神の特定の特別な名を発音する事を、

禁じたのではない。

歴史の中で、人間が、神の名を発音する事を禁じたから

そうなって、今に至ると言うのが事実です。

 

ヘブライ人のトラーを書き写す”書写”達が、それをどう

変えたのか?と言うと、発音文字記載を変えてしまった

のです。四文字の下に書く、マゾラ テキスト=発音記号で

ある母音を一つ外して書く、別の母音を書く。

しかもその読み方は、”主”=アドナイと言う全く別の”名詞”

の発音で読んでいるのです。

詰まり、”イエホバ”と書いてあるのに、アドナイと言う別の

発音で読んでいると言う事です。

ジェホバ、エホバ、ヤーウエなどと言う読み方で発音されて

もいます。

 

これは、歴史の中で、神の名を発音出来ない様な迫害が

あったから、公の場所でユダヤ人達が神の特定の名を

発音する事が出来なくなったと言うのが事実なのです。

 

2世紀にユダヤ人ラビが、”トラーの巻き”に巻かれて、火に

くべられ処刑された。ローマ政府が神の御名を直接発音する

事をユダヤ人に対して禁じて、公の場所で見せしめに処刑した

いきさつが大きなきっかけでした。命奪われる位なら、

神の名を発音するを止めよう、身の危険回避が最優先。

自分達の間だけでは、密かに神の名を語り、公の場所では

別の発音で、神の名を語ろうと言う対策を編み出した。

それが事実です。

 

身の安全を守るには、ローマが強要する宗教に迎合した方が

まずは安全だとして、神の言葉を捨てる事に同意した事で、

異邦人達は別の教えへ乗り換えて行った歴史の経緯がある

のです。神が神の言葉を終らせたのではない。

人間、ローマ政府が神の言葉を生きる事を禁じて、

それを生きる人々に重税、迫害、死刑を課せたのです。

 

長い歴史の中で、ユダヤ人達は、トラーを生きる事で、

どれだけの迫害、処刑にあって来たのか歴史の史実を調べる

と真相を知る事が出来ます。カトリシズムに改宗しなければ、

処刑されて行ったのです。

 

ユダヤ人達が抵抗していたのは、人の作り出した宗教を取り、

神の言葉=契約を捨てる事、詰まりトラーに書かれた

ライフスタイルを捨てる事に抵抗しているのです。

そして、ローマが解説する”救い主”がトラー、預言書に

書かれている救い主では無いと、聖書に照らし合せて

考えているからです。彼らも今も救い主が来るのを

待っている。辿り着く”結末”、結論は同じです。

同じ救いを知っているのです。トラーに基づいて。

ただ、2000年前に来られた救い主が、人間が編み出した

教えのトラー、預言書とは別の仮面を被った解説をされて

しまっているので、その救い主は、別の宗教の教祖様だから

違うでしょうとトラー、預言書に基づき、認識出来ないから、

人造宗教の仮面を被った救い主を拒絶しているだけなのです。

 

プロテスタントでも、カトリシズムに改宗せよ、又は別の

宗教に改宗せよと言われたら、抵抗するのではないかと

思うのです。違う教えだと思う事に人は迎合出来ない。

自分の信念を変えない限り、真実ではないと思う事、

信じても無い事を生きれないからです。

 

契約=神の言葉を受け取った代表者であるイスラエルが、

その神の言葉=契約を捨ててはならないと神から命じられて

いるのです。たとえ、異邦人が神の言葉=契約を捨てても

イスラエル=大家族である長男がそれをする事は出来ない。

 

トラーを捨てよ、トラーに書かれているヘブライ色を捨てよ

神の祭り、シャバット、契約継承の印である割礼や、

食生活やライフスタイルを全部捨てよとローマ政府が命令

したから、トラーのライフスタイルを生きる事を禁じられ、

トラーを頑に死守しようとする人達を処刑したと言う事と

内容は同一なのです。

海外に住むユダヤ人達も、ユダヤ人である事で差別、迫害

されるから、ユダヤ人である事を公共の場では引っ込める。

でも家では、ユダヤ人のライフスタイルを送ると言う事は

今でもあるのです。大分世界の流れが変わって来ましたが。

異邦人が、”イスラエルの神の名”=実体、言葉を愛して

求めて生きる事が起きているからです。

 

人が神の言葉通りを生きる事を禁じた。神が途中で

神の言葉を変えたのでは無い事実に戻れば見えて来ます。

 

これは、別の大きなトピックなので今この記事では

詳しく書きません。

その他多く、様々な只の伝統が存在し、それが神の言葉の

真実だと思い込んでいると言う事をまず知る必要が

あるのです。

 

神の言葉だけに立って、神の言葉に基づき検証し、色々と

不明な点を、”何でだろう?”と疑問に思った方が良いのです。

 

疑問、質問は、考える事、調べる事、追求する事に繋がり、

その行動は、真実だけを繋げて、たぐり寄せて行けば、

必ず神の言葉の真実に至る発見に辿り着くからです。

子供の様になって”神を求めよ”とは、子供とは果てしない

”知りたい願望”があるからでもあります。純粋に神を求める。

純粋に、欠け目なく物事を見て、疑問に思う事を聞く。

神の真実=主の御顔=実体を知りたいと切望するその

追求精神を失ってはならないと言われたのです。

 

ある聖書箇所を読んで、翻訳読んだら、辻褄合わないのに

何となく分った様なつもりになっているものがあるのです。

 

例えば、マタイ23:1-3です。

1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って

言われた、

2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座に

すわっている。

3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って

実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。

彼らは言うだけで、実行しないから。

 

普通に読むと不可解、意味不明な箇所です。

 

続く