人の理解の限界は、神の言葉の真実を無効、不真実にする理由には決してならない コロサイ2:11 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

コロサイ2:11 あなたがたはまた、彼にあって、

手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、

肉のからだを脱ぎ捨てたのである。

 

手に依らない割礼=アブラハムの割礼が無意味になったと

書いてあるのではないのです。イエシュアもパウロも

100%トラーをアップホールド=支持、保護している事実

から聖書を読まなければならないのです。

ローマの教えの、トラーを破棄しにイエシュアが来たと言う

偽りの教えを全部排除して読むと、パウロが何を語って

いるのか、論点の中核がはっきりと見えて来ます。

 

手による割礼とは、人の行いにより獲得する手柄により

神の前に義とされる行為です。

誰一人行いにより、義とされる事は100%無いからです。

義とされるために、トラーを生きる、やっても的外れ、

それを律法主義と言うのだと言う事と同じ事です。

人が義とされるのは、行いによるのでは無いからです。

神の完了の業のみ100%です。それが人を”義”=神の似姿の

元の自分が取戻されている根拠、神の業にのみ拠り所が

ある。

 

アブラハムの割礼は、新しくされた人の肉眼で見える

契約を授けられた証拠である”印”です。

 

これは、男子が生まれた直後に、自分が知らない間に

授けられるものです。

気がついたら、割礼が授けられていたと言う事です。

イスラエルだけへの、ユダヤ人だけへの教えと言う人間の

教えを捨てて読む。聖書には、人の聖書的ライフスタイル

生き方が書いてあると言う事実に戻す。

イスラエル=全人類の大家族の長子として選ばれた代表、

契約を受け取り、それをガードし、全世界へイスラエルの

神のデザインした人の生き方を教える、大お家元、

代表としての役割を授けられただけです。

 

詰まり、自分には意識の無いまま、自分で選択しないまま、

神が一方的に”義”として下さったという実態、事実を、

男子の割礼という目で見える印として与えているのです。

 

そして、割礼とは、肉の目が開かれたしまった事により

神の目から見る事に、包皮がかぶっていしまった。

その違う目から見る事を学習した、目=頭脳、

本来の自分では無い人、生き方を学習した、その頭脳に

割礼を入れられたのです。

 

割礼=境界線を引かれたと言う事。主と共に死んだ自分は、

実際には自分から切り離されていると言う印。

割礼を入れられた頭脳=神の目から見る世界を

再学習する、知って行く事。

これは、神の記念日=モアデイムの中に生きる時、

神がその中で”肉の目”から見たものを一つ一つ

教えて下さる。全部が繋がっているのです。

肉の頭脳=脳回路離脱のサイクルが、一年に渡る

神の記念日を通して教えられて行くのです。

その記念日は、イエシュアの実態そのものなのです。

 

割礼の教えは、すなわち本物の自分=新しくされた人を

表している事でもあるのです。

以前の肉の自分は死んで、切り離されている。

本当の自分が現れ出てくる生き方に移行。

包皮=以前の死んだ自分で本物の自分が覆われる

ような生き方をしない。

良い地=神の目から見る通りの頭脳で、全てを

見る事を、割礼を受けた頭脳は、神の目から見た通りを

みる事が出来る頭脳だと言って居るのです。

 

その事実を、神の言葉を終らせたから今は無用という

人間の教えと決して、混同しない事です。

アブラハムの割礼は永遠不変だからです。義とされている

印が、男子を通して与えられている。

 

 2:12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、

同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる

信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。

 

はっきり書いてあります。

バプテスモ、バプテゾーとは、“浸る” ”一体となって

神と繋がれる”。詰まり、水を潜る、目に見える儀式の

意味する所は、子宮です。

 

子宮=命を生み出す場所=神の中に居る事を表すもの、

そして憐れみと言う言葉と同じ言葉が子宮です。

死んで命が生まれる。

イエシュアの死で共に葬られた。生ける水を潜って死んだ。

そして、同時に水を通り、イエシュアと共に完全に以前の

人は死に伏して頂いた。

そして、イエシュアと一つに浸され、繋がれて、甦られた。

神の業、完了の業で、神の似姿の人に変えられて、

イエシュアと一体となって、生ける水=イエシュアから

生まれた新しい人として甦らせられた。

 

その人は、”罪人”の実態ではなく、本質は神の似姿の人に

なっている。

イエシュアが内側に住まわれ、その人もイエシュアの中に

住んでいると言う事実から全部を考えるのです。

 

人の教えは、人を不自由に閉じ込め、苦しめ続けます。

罪悪感、失望感に襲われて行きます。自己嫌悪にも繋がる。

なんて駄目な自分なんだ〜と、自虐、責め続けるからです。

でも神はなんと言っているのでしょう?

 

新しく創造された人と言う事実がはっきり書いてあるのです。

肉の頭脳=割礼の無い頭脳には、素通りになる神の領域の

世界が、神の言葉の中で語られているからです。無割礼の

頭脳には響かない、種が地に根付かないから実が出ない=

真実が見えて来ない。

割礼のある頭脳は、良い地=トーヴの地。種=神の言葉が

そのまま肥沃で健康な土地に植わり、根を張り、芽を出し、

やがて水のほとりに植わる木には、実がたわわに成る。

 

続く