聖書に無い言葉では、イースター。
試しに調べて見ると分かりますが、イースターと言う言葉は
ヘブライ語では無いですし、聖書のどこにも書かれて
いないし、見つからないです。聖書の中に無い言葉だからです。
クリスマスも同様に、造語です。
”神”と言う創世記の冒頭に出てくる言葉、”エロヒーム”
<エル>は、異教の神々に対しても同じように使われる
言葉です。
後から、イスラエルの神御自身の名=固有名をたくさん
紹介しています。それらは、イスラエルの神の特長を
表す固有名詞です。名とは実態なのです。
名は体を表すと言う日本語の表現と同じです。
そしてイースターも固有名詞なのです。
異教の神の名前=固有名詞です。
人間と言う名で一般の人全部に使う言葉と、
その人間の個人名を使う事は、全く意味が違って来るのです。
イースターは、多産を祝う神、女神などの名です。
そして、春の女神の祭典。イシュタール、タンムズと言う名
を検索してみると、名前の由来、その名を所有する神々の
内容を調べる事が出来ます。
だから、聖書とは関係の無い、イースターエッグ=卵=
多産を願う印や、異教の神の印、ウサギがイースターと
くっついているのです。
アメリカでポークハムを、イースターを祝う食卓で食する
伝統などありますが、イスラエルの神の仕来りでは
完全にないのです。調べて事実をみれば、
誰でも納得出来る内容です。
異教の神々の名が、イスラエルの神の記念日の中に混ぜられ、
変えられ、取入れられてしまっているのです。
変だと思いませんか?何も関係無い、異教の神の名を
イスラエルの神の記念日に対しての固有名詞として
付けられてしまっている。神の祭りの名は、神が造った
ものであり、神独自が付けられた名が存在するのです。
イースターとは、神が造った祭りとは別の名。
そしてその本物の復活祭なるものは、聖書では、
過ぎ越の祭りの中で、過ぎ越から三日目に祝う
”初穂”を捧げると言う祝い日がはじめから永遠に渡る
神の記念日として存在し、祝われ続けているのです。
ちゃんとヘブライ語の名があるのです。
そして、イエシュアが復活する前から、既に完了の業を祝う
イスラエルの神の記念日の中に神が創造、デザインされて
いるのです。その名は、”ヨム ハ ビクリム”。
過ぎ越の後、初穂を捧げる日があり、そして、
過ぎ越から7週後のシャヴオートまで初穂が育ち、
増え続ける数を数える週なのです。
今は大事な時期です。
初穂=救い主の性質で成長して行く人が束ねられる。
完了の業で新しくされている実態での自分の生き方を
常に振返る日々。
ビクリムのギリシャ語訳が、イースターではないのです。
もちろん、クリスチャン達は、異教の神々を祝っている
つもりなど微塵も無いのです。ジーザスの復活を祝っている。
でも、自分が、自分の子が、親が付けた名とは別の名で
誰かに呼ばれたら違和感が在るのです。
ちゃんとした、本当の名があるよ!自分ではない違う
名前ではなくて、本名で呼んで下さいとお願いするの
ではないのでしょうか?
伝統の中に埋もれた、イスラエルの神にそぐわない、名や
慣し、生き様があるのです。伝統だから、考えてもみない、
疑問にさえも思わない、でもイスラエルの神には属さない
ものは、数多く在るのです。
春の神の記念日は、過ぎ越から始まり、種無しパンを
食べる週、その中にある”初穂”を捧げる日、
過ぎ越から7週間、オメルを数える週の後に
シャヴオートが来るのです。
そして、シャヴオートを迎える時、その時に、今度は”種”を
入れたパンを捧げる。これも完了の業=福音の中心なのです。
最上の小麦に種=神の要素を入れたものを捧げる。
復活の命=初穂の要素=イエシュア=パン種を、
最上の小麦の中に混ぜられて造られるパン。
新しくされたイエシュアの性質を持つ人々。
神の記念日は、シャバットで始まりシャバットで閉じる
そして丸ごと全てを祝う形で行なうものなのです。
どれか一つだけ取り出して行なうのは、神の意図した
指示とは異なるのです。神の記念日は、神の指定した日に
神のデザイン、指定した通りを行うものなのです。
神の言葉、神の創造されたものの中に、別ものの教えが
混ぜられてしまう、変えられてしまうと言う点が
問題なのです。そして、人の発案により、大衆に受け入れ
られるものに変化させてしまうと言う事が問題なのです。
古代から見たら遥か彼方の現代。異教の神々の、ヘブライの
世界とは異文化の異教の地の世界で、ピュアに、純粋に
混ざり物の教えが入らず、イスラエルの神の言葉が保存
されて来たとは、全く言えない理由、要因がある事が
はっきり見えてくるのです。人が神の言葉に手を
加え続けるからです。
人々に受け入れやすい様に、神の言葉を変えれば良いと
言う発想だからです。
その決め事はニカイア会議にて様々な人間の意見、
決議で聖書=神の言葉の内容を訂正、再定義、改造した
事実、きちんと根拠、事実を調べる、探って見れば、
どこでどう、神の言葉が、人間の手により変えられて
しまったのかは明らかなのです。
神が永遠不変と言われているのに、どうして途中で色々
変わった教えや、変わった契約が出現したとなるのか?
どうしてだろう?神の言葉と人の言葉ではどちらが
信頼出来るのだろう?と考え始める、調べ始めると
真実に辿り着くのです。
続く