エペソ 5:25
夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
よくよく神の言葉の中身だけ、意図だけを読んで見ると、
人間の神学を元に読むと、神の意図とはずれている事、
事実ではない事に、数々気がつける事がたくさん出て来ます。
これは、ある一例ですが、翻訳用語で”教会”と訳されていますが、その”教会”と言う翻訳の元の言葉は、
ヘブライ語では”カハール”呼び出された人達が本当の意味です。
教会とは不適切な訳、本来の意味に沿わない、
ぴったりでは無い訳なのです。
そして、そのヘブライ語をギリシャ語に訳したものが、
”エクレシア”と言う言葉ですが、同じ意味で書かれています。
しかも、カハールは、聖書の一番始めから、いや永遠の中から
存在しているのです。
イスラエルの神の家の家族の1人1人。
それが歴史の中で、集められている、
雪だるまの様に、どんどん大きくなっている。
教会とは、日本語では”教える会”と書きますし、
古代ヘブライの世界の意識の”呼び出された人々”のそれと、
今”現代の教会”と言う言葉の意味する所、そのコンセプトで
考えると、どうしても西洋寺院の、いやアメリカンスタイルの、
キリスト教の教えを教える集まり、活動をしている”教会”と
言うイメージになりますが、
それを、一度全部リセット、分解して、そんな”宗教色”=何何派の何何グルーとか、人種や、人の唱える教えで分けられている壁も何もない、只只神の招きに応答して、反応した人達、
人間個人個人である、シンプルな事実に戻ってみるのです。
人造神学と言うのは、人間が神の言葉を定義する学問です。
神学イコール、それが全て神の言葉の真実ではない事を
知った上で、一旦神学と言う箱を全部壊して、箱から飛び出て、神の言葉に、ダイレクトに直接戻り、神の言葉の中だけ、
神の言葉だけに語らせる、語って頂く、神の言葉の語る真意、
真実の中だけで考えてみると言う事を、して見るのです。
そうすると、人造神学分断思考で考えている神の言葉の定義、
その思索によれば、2000年前に突然救いが現れた、
2000年前までは、仮の救いしかなかった、
2000年前までは、カハール、エクレシアなる存在は無かった。
2000年以前の人達は、神が与えた厳しい掟、律法と言う呪いの下に在った。それ以前の人に救いは無かった、
もしくは選ばれた人にしか救いや、聖霊が内側に住まなかった
と言う教えになっています。
でもそれって、聖書に基づき本当の事なのでしょうか?
しかも、使徒2章のシャブオートで、突然聖霊が、初めて人の中に住う様になって、”教会”なるものが初めて出現して、
今度は”恵み”の時代に入ったと言う教え。
これ、本当に異邦人思考、ギリシャローマ哲学思考、分断思考、線上にしか物事を見ていない哲学の影響を
もろに受けている教えです。
神の言葉の真実とは違う、七変化のイスラエルの神像。
コロコロ、時代により顔色変える一貫性の無い、
グラグラ不安定な親を持った子どもは、
混乱する、健全には育たない。
ちゃんと聖書を知れば、読めば、その教えは、聖書、神の言葉の事実とは全く異なる事が書かれている事に、気がつく事が出来るはずなのです。
ペテロや使徒達は何故、イエシュアが救い主だと
分かったのでしょうか?と言う事を考えて見ても分かります。
2000年以前の人も、”救い”=イエシュアを、トラー、預言書、
諸書の中で、また実際に神が人の内側に住われていた事実で、
知っていたのです。
現代の人が過去へ、イエシュアを見ている事実と、
古代の人が未来へ、イエシュアを見ている事実と、
なんら変わりない事なのです。円の回りに居て、
円の中心を見ている図を想像すれば分かります。
一本の線上ではない、円。全部ぐるっと繋がっている。
どこからも同じ。どこからもアクセス出来る。
現代のユダヤ教の人達は、イエシュアが来られた事を
認識していません。いや、様々な預言者=ラビが救い主だとか
言う人達もいる。しかも、キリスト教が語るイエシュアが、
トラーのイエシュアだと、絶対に認識出来ないのは
当然なのです。
でも、イエシュアが突然、ラビに直接現れる事が多々
あるそうです。パウロにイエシュアが現れた様に。
そうすると、キリスト教神学の語るイエシュアではなく、
トラーに書かれているイエシュアだとはっきり分かる。
トラーにピッタリマッチするから、はっきり”ハ マシア”だと
認識するそうです。
でも、イエシュアを知ったラビ達は、”隠れ信者”にならないと、
殺されてしまうそうです。
人造神学の教えは、契約、約束、顔色、業を変える七変化の変形したイスラエルの神を語っているからです。
聖書とは違う、イスラエルの神像を、神学で語るから、
違うと思うのは当然の事なのです。
続く