聖書預言は、神の意図通りを伝えるものです。
そして、占いの様に、未来予測を語る側面中心よりも、
預言とは、イスラエルの神の中へ、神のトラー=ブリットの
生き様、神のデザインした人間の生きる本当の姿へ、
言葉の中、契約の中に人々が戻る、
修復する事を呼びかけるものなのです。
聖書の預言者の役割はまさにそれです。
常にイスラエルの神に、人が神の言葉から、
問われている事に気がつくのです。
聖書の創世記出だしの部分冒頭には、神の固有名は
書かれていません。
聖書の創世記の2章で初めて、御自分の御名を明かした所まで、
全て神と言う名は、ジェネリックネームで書かれているのです。
”神”と言う言葉が、イスラエルの神の固有
個人名ではなく、”ジェネリックネーム”で
書かれていて個人名ではないのです。
詰まり、社長とか部長とか校長先生、総理大臣、閣下とか陛下とか王などのように、個人名ではないのです。
山田太郎校長先生と個人名を付けて呼ぶのと、只の
タイトルである、校長先生と呼ぶのと、少々違います。
ヘブライの世界では、”名”と言うのは、只の呼び名ではなく、
”実態 ”評判” ”性質” ”実質”などなど、その”名”の持つ本体を表すものだからです。
”神の名”で祈るとは、”イエシュアの御名”で祈るとは、
神の性質、実態の通りを、自分の中で照らし合わせて思索、思いめぐらす、確認する、宣言する、神と同意=アーメンと言う作業が祈り=テフィラーなのです。
ですから、イスラエルの神の性質=聖書に書かれているイスラエルの神の性質とは違う事を、考えながら思いめぐらす=祈れば、それは只空虚に意味無く、主の御名を唱えているだけで
あるのです。
マタイ7章21−23
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
神の国のトラーに反逆するものたちは、神に属さないと
はっきり書かれています。
天=イスラエルの神の中に住まうものは、神の意図通り=御心を
生きる人達と書いてある通り。神の意図とはズレた自分の考えを貫き生きる人に、わたしはあなたを知らないと言われると
ある通りに。
詰まり、人間の勝手な考えや思いは、いくらりっぱに見えても
その人には納得行く教えでも、イスラエルの神には属せないと
言う事がはっきり書かれているのです。
すごいクリアーで、はっきりしている。少々違ってもオーケーだよ、一生懸命頑張って考えてくれたんだもんね、などとイスラエルの神は、言わない。こう言う中途半端では無い所が、助かるのです。何でもありの世界の事にされてしまったら
何が真実だから分からなくなり、迷い出てしまうからです。
モーセがシナイ山の上で見た、天の領域にある神の家そっくり
そのままのパターンを地上に再現しなさいと神に言われた通り。
イスラエルの神に属する、そっくりそのままのパターンを
造りなさいとある通りです。
神が見せた、天の実態そっくりそのまま地上に再現しなさい。
天の栄光が地でそっくりそのまま反映されるために。
神の言われた通りを再現する。
出エジプト25:40 そしてあなたが山で示された型に従い、注意してこれを造らなければならない。
神の言われた事、示した事とは違うもの、違う教えが混じらない様に注意してとはっきり書かれているのです。
続く