神が居るのだ!なんて宣言する人は、人々に笑われて、
頭狂ってるの、あほか〜と言われる今の世。
太古の世界は誰一人、それぞれに神概念は違えど、
神が存在しないなんて考える人は1人も居ない世界だった。
そして、いつかその逆の事が起きるのです。
世界に主流ではない教えが、オセロのコマの様に
まるっきり反対にひっくり変える日が来る。
神が居ない=イスラエルの神を知ろうと誰も言わない世界が
来ると書かれている。
それと同じで、今まで見聞きしていた人造宗教の数々の偽の教え、それらと反対の事を言う人を、あほか〜、なにをぬかす〜
異端だ〜と言う事が無い日が来ると、聖書に書いてあります。
それらを宣言する教え=異端だとされる日が来る。
今一度、何も始めから聞かされなかった状態で、
先入感ゼロの状態で、神の言葉=聖書は永遠不変、
一つの書=一つの永遠不変同じ契約に付いて
書かれていると言う前提から、聖書を読んでみたら、
誰でも分って来るのです。永遠不変のイスラエルの神の
言葉の真実を。
聖書を変えてしまうと、どんな事が起きるのでしょう?
それは、アイデンティティ クライシスが起きてしまうのです。
”自分が誰だか分からなくなる”=罪人罪人と言われ続けたら、本当の自分=神の似姿にされている自分である事実=神のなされた完了の業の事実が、分からなくなるのです。
神の業を否定し続ける教え=罪人のままだよと言う教え。
”神がどんな方なのか、その真実な性質が分からなくなる”=神は途中で契約を変える、言葉を変えると言う、コロコロ変わる、その様な疑いを人の中に植え付けると言う事が起きてしまうのです。
私個人の事ですが、私が以前=10年前まで、自分の耳で
仕分けしないで聞いて来た教えは、こんな感じでした。
使徒2章で初めて、”教会”(この訳も非常に不適切な言葉なのでですが)なるものが出現し、初めて聖霊が人の内に下った。
2000年前の人は地獄に落ちた。救いは無い。
その教えを信じている人の神は、一体どんな神なのでしょう?
使徒2章以降、新しい教え、新しい契約に変わった。
これ聖書に基づき両方のポイントとも事実ではないのです。
カハール=エクレシア=イスラエルの神に呼び出された人々は
始めの始めから存在しているのです。同じなのです。
神に造られた人間=永遠の中から一体として造られている。
この事実に目を留めれば、どんな人種であろうとも、
同じ人間であり、それぞれが違う役割を任されたと言う
違いだけで、一体、同じエッセンス、同じ親、神から出て来た事実が分かるのです。
年代により、神の働きが別、業が別という教えは、その教えの根拠は、人造宗教神学。
Darbyと言う人の発想から来た作り話。それが年代を経て、様々な人の手により改良された。まるで500年前の様々な科学者達、神の創造の世界を塗り替える教え、そして極めつけは進化論と同じプロセス。人の造り出した仮説=神学により、
神の性質や働きが歴史の中で変化、分断したとする教えです。
まさに、聖書的思想、ヘブライ思想とは真逆の教え。考え方。
この様な考えは、19世紀に始めて出て来たものなのです。
聖書的根拠皆無の教えなのに。
ヘブライ聖書の中には無いコンセプトで色塗られた神学。
それまで誰一人、その様な考えをする人は居なかった。
と言うかそんなの主流の教えでも何でも無い。異端の教え。
全くもって聖書に基づいた真実ではないからです。
歴史の途中で、ある仮説が有力とされ、情報を流されると、
あたかもそれが真実だと思わされて行ってしまっている
だけなのです。そして、真実ではない根拠に基づき、考えが
繰り広げられて行く。
刷り込み、そして情報が深く浸透して行く。
ヘブライの世界のラビ達が、マタイから黙示録まで読んでみれば、その中身は100%トラーである事を確認する事が出来ます。
なぜなら、聖書は分断された別々の内容、福音が書いてはないからです。
誰かに神の真実が明らかにされたからではなく、永遠不変の神の言葉を、神の目から眺める事をしないで発想された仮説=神学。
そして、使徒2章=ペンテコステなる本当は”シャヴオート”これは、シナイ山の出来事からスタートしているでしょう。
いや、太古の時から、福音は何も変わらない。
福音は始めの始めから、同じ内容で語られていた。
エデンの園で。始めから語られていた。
人間の生き様。何をガードして生きれば安全なのか。
命の木からだけ食べなさい。
そして、エデンの園を飛び出した後、アダムとエバ、ノアも、アブラハムも同じ福音を神から口頭でずっと、神から聞いていた事が、書かれているのです。
神の言葉は、何も変わってなんか居ないのです。
出エジプトしたのに、束縛から解放されたのに、
また”神の教え”の束縛に戻るの?なんて言う教え。
いや、出エジプトした後なおも又、人間の教え=宗教の教えの
奴隷となって、縛られて閉じ込められ続けて、きゅうきゅうしてしまうのです。