マタイ16:13
イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
イエシュアが弟子達に、御自分が一体誰であるのか?を、
質問されています。
彼らが正しく”イエシュア”=ハ マシア=ハ シェム=御名=神の実態である事を理解しているのか問うたのです。
16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
一番弟子、タミハハーンであるペテロが一番先に答えます。
神の目から見た通りを、パウロが答えています。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
イエシュアが救い主である事を、ペテロが、神の目から見たその通り正確に答えたのです。
それを示したのは、天の父であるとイエシュアが承認して
発言されました。
その後にペテロにイエシュアがこう言われたのです。
16:18
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしのエクレシア=カハール=神の家を建てよう。
黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
以前書きましたが、ペテロ=”小さい石”の上に、エクレシア=
カハールを建てるとイエシュアが宣言したのではなく、
”この岩”==大きな岩=荒野を付いて来た岩、
生ける水の源=ペテロが宣言した=”イエシュア”=神、救い主=この実態の上に、神の家を建て続けると宣言したのです。
そのペテロは、神の目から見る通りを、見て真実を知っていた
反面、全く神の内側の外側で見ている部分がある事が
書かれています。
16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
イエシュアが神である事、預言された地上に来るべき、
救い主である事実を、今理解している、弟子達が知っている、認識しているその上で、イエシュアはこれから起こる事を、
弟子達に伝え始めたのです。
でもその後の、ペテロの発言がズレている事が書かれています。
神の意図、御旨、トラーに当たらない、ヨレー=路線を外れた、的を外してしまう圏外に居るペテロの意識、神の見ている通りが見えていない、肉の目から眺めている、神とピッタリ一致していない、その認識で答えているペテロも、同時に存在しています。
16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
神に向かって、人間がいさめている。
立場逆転。
愚かですね。人間である自分が、神の前に、
誰だと思っているのでしょうか?
神と言うお方が誰だと思っていたのでしょうか?
神を差し置いて、人間である自分が、神に向かって発言、
神の言葉を訂正、戒め、いさめている。
神に向かって、人間の教えを解いているペテロ。
これって案外、人が日常よくしている事ではないでしょうか?
神の言葉を否定して、退けて、自分教の教えを
得得と神の如くに、解説、解いて行く。
神に向かって、これこれですよと、神の立場になって
訴えて行く。
宗教の教えも、全く同じ事をしています。
異教の神々の教えと神の教えを融合して、
神の言葉は、変わった、終った別ものになったのだと、
本気で信じ込んでいる。
永遠不変の神の言葉を、それこそ人間の教え、人間が造り出した教え、宗教や、神学の教えとフュージョンさせた宗教
の教えは、神の言葉の真実を、それこそ様々に変形、変化させて
しまった。
永遠不変の神の言葉を知らない間に、
ことごとく人間が、変形させているのです。
神の言葉を勝手に塗り替えて、創作して、自分の解釈や自分の思い通りに、神の言葉を付けたし、削除していくその思索、
その行動、態度。
永遠不変のイスラエルの神、永遠不変のイスラエルの神の言葉が何たるかを捉えない、異教の神々の教え、人造宗教の教え
そのもの。
神の言葉を勝手に、変えてはならない!と言う事が
全くもってぬるぬるにぬるく、分からない。
好き放題に、自分の解釈を解説している。
神のオリジナルの言葉=その元=神の言葉、神が
何と言われているのかが分からなくなっている。
続く