ローマ六章の続きですが、救い、購いと私達が使う言葉の
意味が、聖書の中に書かれています。
購われると言うヘブライ語の言葉を表す事件が、
あの出エジプトの過ぎ越です。
ただ一度だけ死んだ。一度です。何度もではない。
子羊の血を塗った家の初子は、打たれず死ななかったと
書いてある通りです。
天の中にある現実は、地に影として表された。
子羊の血とは、イエシュアの血=過ぎ越の子羊の血なのです。
だから、古代ヘブライ人は皆知っていたのです。
いつ、子羊の血が地上で表されるのか?知っていた。
ローマ政府も知っていた。だから、過ぎ越の祭りの度に、
エルサレム周辺は、毎年厳戒態勢が敷かれていたのです。
救い主が今年こそ、過ぎ越の時に現れるぞと
待ち構えている人達が暴動を起こす事を、
ローマ政府は恐れていたからです。
過ぎ越の時に救い主がその通りに現れて、
過ぎ越の時に、救い主が木にかけられて、
永遠からある購いの現実を地に於いて、
表して下さった。それが過ぎ越なのです。
注意深く聖書を読んでいると、気がつく事があります。
神は、”神の定めの時”=モアデイムに、歴史的にも
重大な事をされています。
ピッタリ神の言われた事を、ガードし、ぶれずに神の
言われた通りを生きる人達は、分かる事があるのです。
神は、必ず神の定めの時に、重大な事をされて
いるでしょう。
シャバットに於いて始まる、全ての祭り。
神の定めの時、一年に渡る、イスラエルの神の暦、
呼び出し会見の日=モアデイム。
過ぎ越、シャブオート、ヨム テルアー、
ヨム キプール 仮庵。
過ぎ越、シナイ山での出来事、エルサレムでの
使徒2章の出来事。
全部神の定めの時に起きている。
神の時に生きるとは、神の言われる事、される事から、
それない事。ぴったり神の中に、本体と影の如く
意気=息投合して生きる事。
神の時の、自分の人生のいまなん時?なのかと言う事に、
はっきり目覚めて、生きると言う事だからです。
さて、パウロはローマ6章の中、ギリシャ語で、”購い”の
意味を書いています。罪の奴隷、義の奴隷とは何か?
裏にある言葉はもちろんヘブライ語。
当時の人達なら誰でも分かる内容で書かれています。
購われると言うのは、どう言う事ですか?
古代の奴隷制度を知れば良いのです。
奴隷は自分の意志を優先出来ません。
奴隷として仕えている主人の所有物だからです。
ご主人様の言う通りに、動く、生きる。
奴隷は、街のマーケットで売られるのです。
アゴラ、ヘブライ語だったらシュックと言う市場で
売り買いされていたのです。
奴隷であったら、私達は逃げられない様に主人の手に
鎖で繋がれてしまっているのです。完全に。逃げられない。
以前の私達はこの世の法則=ノモス=罪の法則と言う
主人に繋がれていたとローマ六章に書かれています。
自分の意志ではなく、罪と言う主人の言うがままに、
自分のしたいと思っている事ではなく、本当の自分では
ない行動、言動、思索を生きていましたと書かれています。
奴隷が、以前の所有者である主人から、新しい主人に
買い渡される時、何が行なわれるのでしょう。
新しい主人は、以前の主人に対して、その奴隷を
買い取る事が出来る”金額”ピッタリを、耳をそろえて
支払わなければなりません。
罪の支払う代償は死とある通り、イエシュアの死=
染み、傷の無い過ぎ越の子羊の血で、支払わなければ
ならなかったのです。
そして、新しい主人の手に渡ったら、古い以前の主人の
手から完全に鎖が切り離されるのです。
この点が混線する所だと思います。
新しい人になった、新しい主人に繋がれたと分かっても
以前の自分の記憶が、それを確実に阻むからです。
何も変わらず、何年経てど空回りして生きて居る虚しさを
感じている人は、少なくないはずです。
何故そう言う事が起こるのでしょう?
続く