感動喜びは朝ごとに新しい 神の創造の世界、言葉の真実に出会う感動を日々味わえる 1 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

思うのですが、この5本の指。

トラーの5=モーセの五書=婚姻契約の5です。

ヘブライ人は”5”と言う数字は、”トラー”と繋げて考える事が

出来る。その意味を知らなければ、私の中からは決して

出ない発想があったものです。

 

何かと言いますと、ある時ふと気がついたのです。

自分の手を見て、なんで指が5本なのかな?と、考えていた。

もっと指があれば、ピアノも弾きやすくない?

せめて7本とか。なんて、神のデザインに疑問を持つ方が

愚かですが。神のデザイン通りがトーヴ=意図通りが

最善だと考えない愚かな発想でした。

たくさん数があれば、他の事もやり易くない?なんて

考えていた時です。

 

ぴ〜〜ん!これ!5! 5と言う数字を見れば、

ヘブライ人には、直ぐに”トラー”神の婚姻契約と

繋げる事が出来るのです。その知識、真理のピースが

自分の知識の中にあれば、神の言葉の次の真理のピースに、

繋げて行く事が出来る。

 

私は、神の言葉で造られ、神の言葉トラーを

生きる様に、歩む様に初めから造られている。

 

だから、神の言葉の中身を意味を知ると言う事が

重大な鍵だと言う事が分かるのです。

神に出会う事は、神の言葉を通して出来る様に、

デザインされているからです。だから神=言葉を知る

必要があるのです。

 

発想の大原則は、”神の言葉の中の真理の中にのみ

留まり考える”と言う大原則の上での話です。

科学もそうですが、真実に的を得て居ない場合、

只の証明不可能な架空の空想の発想は、結果を

生み出さないのです。無いものは無い。

 

無いものは数えられないと神が言って居る通りです。

嘘の仮説嘘を嘘で塗り固めて、本物らしく語って

人を全世界的に騙す事は出来ますが、

真実ではない。観察不可、実験結果、証拠ゼロと

言うのが嘘の仮説の結末です。

でも、嘘で塗り固められた仮説、太古の世界には

無かった反聖書的、神の創造の世界に反逆する教えは、

今や揺るがないほど世界を覆っています。

 

自分の勝手な思い込みの、想像の造り話ではなく、

神の真実に基づいた考えのみの中で考え続けるのです。

 

そして両手の指、両足の指は合わせて10本。

10の言葉!聖書のタイトルの10の言葉。

私達神に造られた人間の姿が書かれている全ての

題目が10の言葉。

10の言葉を、トラーの中身を生きる様に造られている自分!

手と足の指を見たら分かる!神の言葉=10の言葉の

神の似姿=まことの命を生きる様に初めから造られていた!

大感動!!!

 

神の言葉を、どれか一つでも取り除けないのです。

そんな事出来ない、してはならない。分からなくなります。

神の言われる事が。

そうしたら、私と言う人間は、手がもげている、

目が無い、欠損した状態、そう言う状態になると言う事。

イエシュアの顔もゆがみ、手ももげ、足ももげと言う

状態になる。

タミーン=完全な姿と神が言って下さった状態とは

違うものに、なってしまうのです。

 

10の言葉ワンセットで全て丸ごとです。

だから、シャバットをすり替える教えが、

神の教えが終った、2000年以降変わったと言う教えは、

偽物の教えだとはっきり分かるのです。

何故?神の言われている事と、全く逆、違うからです。

永遠不変の神の言葉を土台にする。調べれば誰でも確認

出来ます。神の言葉が2000年以降変化した証拠など

どこにも無いのに、変わったと世界中が語るのは

何故?いや、人々は嘘に目覚め初めて動き出しています。

この終わりの時に。神が神の時に真実を証明すると

ある通りの事が始まっている。

 

神の言葉が終ったと、勝手に削除、創作の神学で

付け足す教えが嘘とはっきり分かります。

オリジナル聖書の神の言葉に照らし合わせれば

はっきり確認出来るから。

 

神が言われてもいない事を、勝手に造り出し、

語り出し、教えだす人間の歪んだ世界。歪んだ人間の教えの

教育の世界。

 

人間の教えで、神の言葉をゆがめてはならないと

ある通り。してはならない。神が言われた忠告だけを

大事にする。ガードする。エデンの中で。

 

10の言葉の冒頭は、”わたしの顔に別の顔を置いては

だめです。あなたのために!”とあるのです。

 

私達は、神のデザインされた神の似姿の人。

信じられないのは、死んだ以前の自分を見続けている

から、その偽の教えに日々、神の言葉に聞き入らないで、

別の教えをコンスタントに聞き続けて、自分の中に取り込み

続けているから、頭脳の切り替えが出来ない。

荒野で死に絶えた人は、提供されている”ナファーシュ”

安息を享受し、味わい喜ぶ世界に入れなかったと

書かれているその同じ事を繰り返してしまう。

以前の状態=死んだ人で試行錯誤しているままの状態だから

分からないだけです。

 

神の言葉に信仰=神の言う真実だけに立つ事を

しないかぎり、結局風に揺らぐ葦のごとく、

不安定にぐらぐらぐらぐらどっち着かずの

生き方に留まる。