神の知恵=デザイン教育ツールはまことに賢い | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

アメリカを車で走ると、聖句やら魚のマークやら

色々なシンボルを付けた車が走っています。

それらは、クリスチャンの世界では、意味が通じる、

分かる、あるシンボルや、宣言です。

 

そして、イスラエルの神には、神の造られた”印”や、

シンボルがあるのです。

 

車のステッカーが悪いとか良いとかそんな話をしている

のではないのです。

 

私達は、まず神が私達に与えて下さっている、生活の中での

様々なインストラクション、イスラエルの神の子ら=神の

似姿に造られている、されている人達と言う事を、

徹底的にインプットするための神が造った、デザインした

イスラエルの神の家の子らの印、教育ツールをすっかり

忘れている、無視してる。

 

忘れていると言う表現は、全く正確ではないでしょうね。

忘れると言う事は、以前は知っていたと言う事ですから。

太古の人達、イスラエルは知っている。

でも異邦人は新参者なので、聖書を目の前に読んでいながら

記憶に留まらず、教えてももらって来なかったと言う方が

正確です。

私の場合に関しても、どこの国に住んでも、どの学校で

集まりで学んでも、只の一度も聖書に書かれている

神のデザイン、教育ツールの何一つ、どれも始めから

教えられても居なかったと言う方が事実です。

聖書に書かれている神の教え、デザインであるのに。

 

詰まりそれは、トラーが終ったと言う、人間の造り出した

教えを基準に、その土台で全てを考えているから、神の言

われる真実がかき消されて、神の独自の知恵を捨てて、

見えなくなっていただけです。

 

神の言葉は、律法ではないのです。神の言葉に対して、

律法なんて語っている言葉は、聖書に只の一度も

書かれていない事実さえ、世界では語られる事もない。

それでは、神の真実がまるで伝わらない事になります。

 

人間の造り出した教えや、先入観や、概念を元に全てを

話されてしまっているので、聖書=神の言葉が曲がって

伝わってしまっていると言う事を知る必要があるのです。

 

”友よ!神の言葉なんだよ!それを一体どう思っているの?”

と友人がいつも言いますが、その通りだ!と思います。

 

神の言葉=神が発言したら永遠不変、不変更、絶対!

 

元の中身が完全に異邦人上がりなんだと思います。

異教の神々の教え=神の言葉なんてコロコロ時と場合とに

より変わると思える意識。

私は、神の言葉がなんたるか?が認識出来なかったブラインド

=盲目状態だったと言う事。

 

それは、人の教えを基準にして、照らし合わせて全てを考え

ている事が原因です。

人の教え=トラーは終ったと言う教え。神の言葉は時代

ごとに変わるという完全に異邦人意識、マインド。

でもそれは完全にイスラエルの神の性質と異なる事、

変だと分かります。聖書に照らし合わせてみれば。

 

私達は、自分の努力で神に近づこうとする、その逆噴射的

行動=律法主義から完全に解放されたのです。

 

神の言葉=トラー=知恵から外れたらただ”神の中”=内側の

外側=圏外=非安全地帯=自分の知恵、感覚、

インスピレーション、神のものとは違う教えの中を彷徨う事

になるだけです。

 

神の言葉は、命のパン=神の口から出る言葉ひとつ一つは

人を養う生ける命のパンと書かれている。

天から下るパンには、人間の唱える所の賞味期限なんて無い。

賞味期限ありとするのは只の人間の教えなのです。

 

トラーが分かれば、福音書から黙示録までの中に

書かれている内容は100%トラー。トラーに反した事など

何も書いてない事が分かって来ますし、

神が神の言葉を御自身で否定したり、変更するなどと

言う考えこそ、それこそイスラエルの神とは異物=

異邦人の教えだとはっきり分かってきます。

 

私達は、トラーを知らずに、福音書から黙示録までを

読んで、別物で優れた新しい教えが出たのだと勘違いして

いるだけで、イエシュアが語られているのは、トラーの

中身そのもの100%なのです。

変わった新しい教えだと勘違いしているから、

誤解、ズレ、変形、創作が出て来るのです。

 

さて、神のデザインされた教育ツールも賞味期限無しです。

それを知った上で、実際にそれを生きてみるとなるほど〜

神は賢い方だと分かって来ます。

それらを生きる事=生きる事=キリストが辿った生き様

全てです。生活=生きる=その全て。

 

中身を伴う生き方=肉の割礼が示す所の=頭脳の割礼が

伴って初めて、割礼の表す意味が分かって来る。

 

割礼も神の教育ツールのデザインの一つですが、

これは深〜〜い意味があります。

 

まず、教育ツール。

様々にありますが、日々の中で、週の中で、一ヶ月の中で、

一年の中で、繰り返し繰り返しそれを生きる事で私達は

神に教えられて行く事が書かれています。

 

続く