レビ記23
六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き
休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事も
してはならない。
これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき
主の安息日である。
まず最初に、これは主の”御口”から直接語られた、
まさに神の口から直々に語られた言葉なのです。
永遠不変と書かれている通り、代々に渡り変わらない
神の仰せ、言葉なのです。
誰かに託宣をしてではなく、神が直接語られた。
私は想像してみるのです。
”神の御口”から直接語られた言葉を、モーセが聞いて
書き記した。。。。神の御口、その声のトーンはいかに??
ワクワクします。
そして、神の言葉は永遠不変だと言う前提で読む。
神の婚姻契約の中に入っている印として、様々な教え、
シャバット、定めの時=主と特別に相見えるその
特別の”時” 暦を神が設定している事実に目を留めて
みるのです。縛り付け、呪い、律法なんて考えは、
人間の造り出した教え。
誰でも、婚姻関係にあるなら、そのパートナーとの
結婚指輪外して捨てたり、特別な記念日をないがしろに
したり、わざと忘れたり、縛り付けの日だなんて、
そんな事思わないでしょう。心込めて、大事に大事に
その日を迎える。楽しい日!なのです。
喜び楽しみ食べて飲んで、そして、イスラエルの神が
どんなに良いお方であるかを皆が体験するための日と
聖書に書かれています。それが呪い、縛り付け?律法?
それは、聖書の記述とは大分かけ離れた考え、教えです。
記念日なのです。婚姻契約の中にある、祝いの日!!
イスラエルの神の中で、永遠に繋がれている
印としての、様々な記念日と、神の似姿の人として
その全てを生きる印、仰せがある。
それが、モアデイム。定めの時であり、
主の仰せなのです。
代々に渡って変わらない仰せである事。
その祝いの日に、主の御前に家族で集まり、
喜びの中に祝う。美味しいごちそう、美味しいお酒
飲んで食べて楽しく祝う。主を真ん中に向合い、
お互い向合う時=楽しい食卓、晩餐。
食事をすると言う事は、親しい親しい間柄でだけ
出来る事=ヘブライの世界では、親しい関係の人が
食卓を共に囲むのです。
そして、そこは交わりの場所、修復の場所、会話の場所、
憩いの場所、愛を確認し合う場所。それが”神の定めの時”
なのです。
そんな麗しい”定めの時” 神との特別定められた会見の
時を、縛り付けの面倒な仰せと思うとしたら、
イスラエルの神、イエシュアとの関係が有るべき場所、
状態に無いと思った方が、安全かも。
いやそれ以前に、どうしてそう思わされて来たのか?
神の言われる事を、うっとうしい縛り付け、戒律
律法などと教えられて来てしまったのか?
その事の方に疑問を持ったら、謎が解けて行く。
神の言葉の中、言われている事の中に戻る!
人間の造り出した教えの中にではなく、神の言う言葉
の方に耳を傾けて聞く。人間の教えを退けて、
神の言われる言葉を否定しないで、そのまま受け取る。
神の言葉の中、エデン=喜びの園、あるべき、居るべき
場所に戻って最愛のパートナーである方の声を聞く。
今現代の世界では、子供達も塾や活動に忙しく帰宅時間も
遅く、または会社の付き合いで、飲み会などで、他の
様々な用事で家族団らんなんて週の殆どの日持つ事も
ままならない状態である人の方が多いと思います。
一緒の家に住んでいたとしたって
それぞれがバラバラにそれぞれの事をやっていて、
向合うなんて時を持つ事さえしないかも。
一週間の間、意味のある、心触れ合う会話なんて
全くしていないかもしれない。
用事がなくても顔を覗き込んで、目を合わせて
にっこりスマイルするなんて事あったっけ?
主の仰せは、私達の”まことの命”が守られるためです。
人は止まる、そして互いの関係を神のデザイン通りに
向合う、修復する、育てる時、やり直す時が必要だから、
この様な仰せがある。
いやそれ以前に、“シャバット”は神のデザインなのです。
6日目で全ての業を終えた。
人がシャバットに止まると言う様に、造られている。
そして、神の完了の業から永遠に生きる様に造られている。
そう、書かれています。
その中には、主との関係に入る。いや主が人と関係を
結ぶ状況に入られたと書かれています。
シャバット=止まり ナファーシュ=憩われた。
肉体が無いのに、憩うのか?
神が”憩われた”と書かれている。神と言う存在である
お方が、人と同じレベルの中に来て、人と関係を結ぶ
その状態に入られた様子が書かれている。だから神が
止まった=人も止まる。神と同じ場所で、本来の姿に、
軌道修正、リセット。
続く