ローマ2章26
だから、もし無割礼の者がトラーの規定をガードするなら、
その無割礼は割礼と見なされるではないか。
主よ主よと言う人が 神の国の姿を本当に生きてる
のではない。
知らないまま 主の似姿=トラーを生きて居る人を
主が義と認めている箇所がありますよね。たとえ話で。
実態を生きて居る、その事が本質であると書いてあるのです。
27 かつ、生れながら無割礼の者であって、トラーを
全うする者は、トラーの文字と割礼とを持ちながらトラーを
犯しているあなたを、さばくのである。
生まれながらの無割礼=異邦人。
ユダヤ人と見なされる儀式=”割礼”と称させるユダヤ人に
改宗する儀式を持たない人も、実態は”神の似姿”を生きて
いるではないか? あなたたちはどうなのか?
印だけ、形だけ持っている~しかし実態の無い生き方では
割礼が影薄くなる。
本当にそうだと思います。
口先だけの 命の無い生き方は、空 虚しい 空虚。
その生き様こそ、主の前には全く無意味 無価値 意味なし
霊無し、命無しですね。
28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、
また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
そうです。ここのパウロの論点は、割礼が
無意味、大事ではないなんて話をしているのではないのです。
論点が何かに注目。
この箇所の論点は、形だけ装って中身は空、生きて居る
実態が無い事は、口先でだけで 空虚、意味ないと言っている
のです。
”主の似姿” 取戻された主と共に蘇った本来の自分で
生きる事が無ければ全て無意味、虚しいと言う事。
論点を取り違えなければ、パウロが言わんとしている事が
はっきり見えるでしょう。
何を言いたいのか?です。
”アブラハムの割礼”が無意味、終ったなんて話は
100%していないのです。
形だけ持って、中身の無い生き方を話しているのです。
29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
また、文字=人間の教え によらず霊による頭脳の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、
神から来るのである。
人が主を信じますと言いながら、実態は主の似姿
トラーの命を生きないなら、それは無割礼=契約の中に
居る人の姿、主の中に居る人の生き方ではないと書かれている
のです。
アブラハムの割礼=永遠に変わる事の無い契約の印だからです。
ここにいるユダヤ人全て、アブラハムの割礼を子孫に施して
居る事忘れるなかれです。