あなたの中にいる主と 私の中にいる主は同じ主 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

主の救いは永遠から存在している。
人間がそれに気がつくか、気がつかないか。それだけ。

一方的に主から与えられている事に、気づくか、
気がつかないか。
気がついた=それも人の手柄ではない。
主がアプローチしてくれたからです。

腹の中に”天の御国=完了の業が既に到来している”
とヨハネが言った事実。

永遠から物事を見る。ある時点から、義とされたのではなく
主の完了の業が永遠からあり、ある時点で、人間の側で
気がついてスイッチオンになったと言った方が合って
居ます。救い、神の似姿の人が取戻されている。
どの人も同じ。

主の命が内側で眠ったまま、ドーマント状態。でも完全に
眠っていたのではない。完全に死んでいたら、神に反応
する事さえ出来ないからです。

神に造られたどの人の中にも、腹に書かれたトラーがある。
人は神の似姿に造られているからです。
神の似姿の人が永遠から取戻されている事実が
自分の中で完全に目覚めていない
状態と言った方が合っています。
聖書にそう書かれているから。

救いが何段階にも分かれているなんて、それは歴史線上に
物事を考えているから。神の目から見る事と、人間の哲学、
思考とは全く異なるのです。

だから、神の目線へ目を上げて、東西南北を見なさいと
神はアブラムに、言われたのです。
アブラムは気がついていなくても、主の側ではアブラムの
”義”を永遠から用意していたのです。
神の目から見る全てを教えてもらうために。

人間の側の認識、また成長度合いにより、救いの内容の
理解度が違うだけだと言う事。主との関係の深さが
成熟してないと言う違い。
自分は誰か?=神の似姿の人である事を、知らないまま
歩んでいるだけ。信じても、本当の自分、主の完了の
業を知らないまま。
だから、アブラムに神は何度も現れて、
確認、認識させていたのです。
あなたは誰か?神の似姿の人にされているから、
ハーラル=その歩み=一歩一歩吟味して
歩みなさいと言われたのです。
神の義の度合い、レベルがが増して行くのではないのです。

人の生きる上での、神の世界へ入って行く、
領域、広がり、深さ、高さ、その体験の、
本当の自分を再所有する体験の領域、
その事の違いです。

主の中では、永遠から全ては完結済みだからです。

人の中に命が眠っている=神の似姿の人は取戻されているから。
それに気がついてないだけ。
全ての人に救いが入った事実、そう書いてある。
永遠から“救い”=イエシュアは存在し、
”完了の業”は、用意されているのです。

永遠から物事を見る。神の見ている通り、永遠から見る。

”天の国=主の似姿の実態が取戻されている、それがあなたの
腹の中に既に到来している。”とヨハネが宣言した通りです。
それがスイッチオンされるかされていないかだけの、
違いなのです。

人間の手柄ではない。ある時気がついて、
自覚、認識を持って自分が主に応答しただけ。
主は永遠から居る。ずっと同じ事実がある。

その時の脳回路の枝が結合して、神の言われている世界を
理解出来た。閉じていた目が開いた。神の似姿 取戻されて
いる本当の自分が、スイッチオンされた。


続く