主の基準は永遠に変わらない 姦淫の現場で捉えられた女性 1 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

トラーが永遠不変である事、イエスさまが来られた前も後も
神の言葉は一点一画も変わりない事を、誤解する箇所を
例に上げて、書いてみたいと思います。

ひとつの箇所を解説するのに、どうしても前置きが長くなり
ますが、気長に読んでくだされば嬉しいです。

主の基準、トラーの教えはイエスさまが来られた後に、
変わったと思う事の中に、食べもの、シャバット、モアデイム
罪の許し~免罪符 割礼 神殿でのコバーン(今は神殿が無い
からされない。イエスさまが来られたら再び神殿でコバーン
を捧げると書いてある)その他諸々の教えがあると思います。

その他諸々 トラーに書かれている事は、仮りの教えであり、
呪いの教え=トラー 神の言葉を呪いと誤解している
その意識で考えて、その”律法の呪い”の下から解放されたと
よく聞きます。

あの箇所 “律法”=トラーではないのです。
律法の”呪い” の下にあるとは、この世の肉の奴隷状態 縛り
律法主義の呪いの下にあると言う意味でしょう。
ガラテヤ3:13
前にも記事を書きましたので、宜しかったら読んでください。

http://ameblo.jp/echad2010/entry-11799553215.html

トラー、神の仰せが呪いだなんて、これこそとんだ誤訳、
辻褄合わないし、矛盾、誤解の捉え方です。
注意して読まないと=いや翻訳のずれさを知らないと、
誤解して行ってしまうのです。

影などと言う翻訳も、誤解与えますね。

仮の教え=影ではないのです。仮の教えなんて無いのです。
神の言葉は、天のある目に見えない現実=実態 
中身は同じなのです。主の現実=目で見えない現実を
その通りに知る、見ると言う意味です。

本体は見えないけど、本体の影は見える=実態、中身は
同じと認識しなくては意味が不透明になります。

これ補足の説明が必要ですが、言葉だけでは理解出来ない
事があるでしょう。

画像を見せられたら納得出来る事がある。いや目で見たら
説明されるより分かる、インパクトがある事柄があるのです。
これ、またいつか解説しなくてはならない箇所です。
だから、地上でのレプリカ、天の家の現実を地上で肉眼で
見える、体験出来る 五感を通して学習出来る事を
主が置いたのです。

神の目から見る基準も変更されたと言う教えを聞きます。
それらの根拠、概念は一体どこから来るものでしょう?

聖書に書かれている神の言葉は永遠不変だと書かれているのに。
自分の言っている信条と、実際に信じている事が矛盾して
いる。

主の言葉は永遠に変わらないと言う聖書の言葉を唱えるけれど
実際にはそう言う取り扱いはせず、全く逆の事を信じている。
逆の事=神の言葉は変わる、神は変わると信じている。
そう信じていた以前の自分がとても矛盾だらけだ。

不変と言う神の言葉と、変わると言う人間の教えは
相反しています。どちらが一体真実なのでしょうか?
答えは神の言葉の中に
書かれています。

プラス何も変わっていない事は、年代の新しい聖書の
最後の三分の一を読んでみても分かります。

弟子達が主の昇天後何も変わらずトラーの内容を生きている、
神殿中心の生活をし、コバーンを捧げている様子が
ちゃんと書いてあります。
シャバット、モアデイムをガードし、トラーに書かれている
全てをそのまま生きていたのです。

確かめながら読んで見れば分かります。
聖書の中身は、イエスさま含め、100%ヘブライの世界
トラーを生きて居る世界です。


続く