カルト的教えって何だろうの続きです。
教えの中核が 主イエスさまの十字架で罪許されている、
永遠の命を頂く
天国行き切符を手に入れる。
これさえずれていなければ、神の声 異端ではない。
ずれていれば 異端である証拠と 以前 教えらて来ました。
十字架の罪の許しの教えが、ズレていなければ OKなのか?
この内容を考えながら、思ったのです。
主の完了の業に、自分の努力、手の業で
何かを常に付け足す事を、続ける事も
主の教えではないこと。
神の言葉に人の教えを混ぜて、付け足して 変えたりした教えは、
これは 同等に 宗教的、異端的教えだという事。
西洋人造神学の中には、残念ながら 神の言葉に反する
異端的教えが欠陥が満載です。
聖書ではなく、人間の神学を通して聖書を語られているから。
欠陥があるから、進化論のように 仮説が進化
変化していくのでしょう。
アメリカの神学校では ある神学をもう教えないとまで
あります。
なぜなら 聖書的根拠が薄く,いやその仮説を聖書で
サポート出来ない、欠陥だらけの
政治的意図が入った、不完全人造神学だからです。
神学ではなく、み言葉を学ぶ。オリジナル聖書に書いてある事
を学ぶ。
特にヘブライ原典聖書に何が書いてあるのか学ぶ。
やはりキーポイントは 教える人達なのですね。
教えられる側は へ~そうか~位に全部鵜呑みにして
何を質問したら良いかも分らない、いや今は 質問する事も
駄目!という所もあるとか。。。
ユダヤ人の教師は質問がない場合は、何もその教師から
新しい事を学んでないんだな~と 思うそうです。
どんどん 質問しなさい!質問大歓迎~の世界です。
そして みんなで共に 色々考える機会を持つのです。
今は、そんな細かい事調べてる暇ないし、
いちいち言葉にこだわったら 切りないと言われていた
教師の方。
それを 聞いた時 くらくら~とめまいがしました。
本当に。それってあり?
普通の学問の世界でも、ちゃんとみんな学び続けている。
真実を探求し続けているでしょう。教師の人達は。
そう言う人達ばかりではないけれど、それをする人と
しない人では、教えの内容、質が違う。
主がガードしなさいと言われる トラーの教えを
捨てる事も 最大の異端的教えはないかと思います。
神の言葉を捨てる、削除するとは、ヘブライ人の頭の
中には無い意識=異教の神々の異邦人には馴染み易い
教え。
その根底には、どこか 主の言葉 聖書が一つではない
何か矛盾や変化があると、信じているからではないかと
思うのです。
ガードする内容を変えている 捨てている、すり替えていたら
それも、異端的教えと、同じではないでしょうか?
部分異端と言うのが合ってますが。
でも 部分的に取り除いたり、変えたり 主の声と違う
異端的教えは駄目なのです。
何故なら 主は丸ごとWholeness Echadの神だからです。
だから ちょっと一ミクロンでも 変えると
歪む 歪みが出る 神の本物の声、顔ではなくなるから
なのです。
他者の臓器を移植されたみたいに、自分じゃないもの!と
拒絶反応。
これでは バランスを持って 一つ体として 神の言葉が
全然機能しなくなるのです。
変えてはいけない!駄目!アウト!赤信号!と主が
聖書全体で 神御自身が警告している。
それをすると 私達の生きる姿が
危険にさらされるからです。
敵に侵入されるから。
何をガードしなくてはならないか 分らないと
どういうことが 敵からの侵害か分らない
何が破壊に繋がるか分らなくなるからです。
愛さえ 分ればOkと言われるかもしれないけれど、
契約の愛 契約=トラーそのものが 何であるか分らない場合
その愛の内容 姿も分らないのです。
聖書全体で話している中心の教えは 簡単に言うと
初めの土台 初めの愛と黙示録で言われている
このトラーに戻りなさい!
のアバ父の警告忠告なんです!!!
そこが エデンの園=主御自身だからです。
さまざまに 変えられてしまった 聖書の言葉。
教え。
聖書に書いてあっても これは昔の教えと
頑にそう教える、教えられてしまう。
そういう事も、異端的と言えます。
神の現実=実態、本当の自分の命に出会い生きるために
神の言葉が与えられている。
神の言葉=命のパン=イエシュア御自身=神御自身だから。
続く