聖書で書かれている、名前とは、実質の事だ。
ヘブライ語では 衣、顔なども その人を 表すものとして
書かれている。
主の御名、その名前 イコール 主の実質。
主も沢山の名前で ご自身を紹介されている。
訳されると 元の言葉の意味が消えてしまうけれど
調べて行くと、解説されると ああ なるほどと
理解出来る。
聖書の中の 名前も 色々だけれど、
今の日本では、絶対に、つけない名前がたくさん。
“栄光が去った”とか“がっかり”とか
“かかとをつかむもの”など。。。
もっとひどいのは “死 ゴミ くず”
を 表す言葉である名前。
イスラエルを惑わせた “ジェジャベル”だ。
それぞれの名前が その人の姿を表している。
私だったら 親に“がっかり”なんて
つけられたら ”なんで?”と 思う。
そういう人は“がっかり”として
生きるのだろう。
名前を呼ばれるたびに 自分が誰かを
記憶していくからだ。
さて、主の名前は動詞だ。
太古の人達は、主の御名を知っていた。
畏れ多いから 発音しなかったとは
本当ではない。
当時の、書物に書かれたヘブライ語には、
母音がついていなかった。
しかし、オリジナルの 発音が 失われないために
母音を表記することに なるのだが、
その 主の名の四文字だけは、
母音を表記しなかったと言う訳だ。
聖書ヘブライ語の学者である 友人達。
一人の方は、さまざまな 書物の監修をする立場に
あるような学者だ。
ちまたにある 様々な デタラメな教えなども
指摘してくれる。
ヘブライ語を習いながら 色々な事を説明してくれる。
聖書ヘブライ語は 古典だ。
普通のユダヤ人でも 分らない人も多い。
学ばないからだ。
そしてそのために、普通の人は 聖書もあまり
読まないそうだ。
ラビの眼鏡を通した、これまた 人造の教えを
押し付けられるという訳だ。
丁度私達が 日本の古典を読むのと同じである。
しかし しかし、 聖書ヘブライ語は
学んでみると 奥が深い。
面白い すごい。
初めからそういう 物だと思って学ぶと
辛くないかも。
ほとんど 初期で 止める人が多い。
その証拠に 聖書を教える教師で
ヘブライ語に精通している人に
あまり 出会わない。
友人は 一日15分の繰り返しが大事だと言う。
それが出来ると 進めるし 保てるからと
助言してくれた。
私もいつか そんな風に分るように
分るように、なりたいなと
思いながら レッスンを受けていた。
ヘブライ語では ユーフェーバーフェーYHWH
(エホバとちまたでは発音されている ドイツ語発音)
の文字だ。
ヨッド ヘイ ヴァウ ヘイの 四文字。
י ה ן ה
ヘブライ語は 右から 左です。
授業中は ヘブライ語を 習いながら その中に 深い 深い
真理が隠されていて、感動と驚きの連続である。
ヘブライ語は 22文字の アルファベートで 出来ている。
主の御名は、その中でも 一番音が 発音が弱い
文字で出来ている。
主は言葉で 世界を、全てを、造られた。
主の言葉 イコール 実態 主の姿、命そのものだ。
それだから、聖書の言葉も どれ一つ
変えては ならないと 主は 言われた。
一点一画の この ヨッドの文字は
本当 ただの 点である。
それも 変えてはならないと 言われた主の言葉を
そのまま 受け止めないとならない。
変えたら、それはすなわち、主のものでは、なくなる。
別の物に 姿を変える。
イエスさまは、地上に来られた 世界で
たった一人の不思議な存在。
人であり 神である人なんて
イエスさま以外に 歴史で 後にも先にも誰もいない。
主イエスの御名は、Yeshua יֵשׁוּעַだ。
“彼は救われる”
と言う意味。
ヨシュア Yehoshua イェホシュア が短くなった形だ。
同じ語源だ。
英語の John は Johnathanの短い形
それと同じだ。
犯罪人、バラバの 名前が Yeshua ben Baraba
バラバの息子 イェシュアという名前で 書かれている
文献が一つあるが実は、この文献、聖書の中に
後から付け足されたと解説 追記がついている。
まあ 犯罪人が 主イエスさまと 同じ名前だろうが
そうではなかろうが、それは 全然関係ない。
Yeshuaと言う名は 当時のヘブライ人には
普通につけられていた名前だからだ。
犯罪人だろうが 悪人だろうが 良い子だろうが
悪い子であろうが、誰にでも、当たり前に
付けられていた 名前だ。
太郎や健太や みどりや 花子が 日本人の普通の
名前のように。
イエシュアと言う名前は、世界で たった一人に
つけられていた 名前ではないのだ。
イエスさまは、普通に 目立たず、生まれて来た方だ
という事が分る。
だから 主の御名により頼む 望みを置く、祈るというのは
主の実質においてと言う、意味で 聖書には書いてある。
主がどんな お方か分れば、そのお方に全ての信頼を寄せる。
信仰とは、主が どんな方かを認識する事である。
どんなお方かということを、正確に深く知って行けば
信頼が深まるのは 当然だ。
イスラエル滞在の終盤での、乗馬のレッスンで
再度思ったのですが、
どの世界も 外側から見ていては 分らない世界がある。
一歩足を踏み込むと、そこには、
知らなかったさまざまな 世界が広がっている。
馬を誘導する方法、馬への話しかけ方、手綱の弾き方や
足で馬に指導 合図を送ること。
小さい親戚の女の子達が 馬の世話をする手順、
様子を見ていても
知らない世界を見るようで 面白い。
話が 直ぐに脱線しますが、
その ヘブライ語の4文字は
ヘブライ語のアルファベートの中で
一番発音の弱い文字なのだ。
ああ 主の御性質そのもの!!
なんと 謙虚で へりくだり、 静かで 優しい姿。
大声でどなったりしない。
上から目線で 私達が失敗しないか、
もらさず 全部出来ているか
見張って、にらみきかせて、チェックする神ではない。
やさしい アバ父 全部は 私達の為なのだ。
かわいくて 愛しい我が子を、守り、見る目だ。
アバ なんて 慕わしいの。
ああ 本当に あなたの子供で 良かった。
いつも静かに静に、
小川のせせらぎのように
絶え間なく私達に静かに、語りかけておられる。
やさしく やさしく子供を諭すように。
1列王記
19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で
主の前に立て。」
すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、
激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、
風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、
地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震のあとに火があったが、
火の中にも主はおられなかった。火のあとに、
かすかな細い声があった。
ただ 立ち止まって 静まって聞こうとすれば
聞こえて来る。響いて来る。
エンボゲッグや エン ゲデイの小川のせせらぎの ように。
日本にも ある 沢山の小川のように。
小川を 歩いていると 静かでも さらさら
自然の音がしている。
静か過ぎて おしゃべりしながら 歩いていると気が
つかないけれどふと立ち止まってみると、さ~と その音が
意識の中に入って来る。
主の声のようだ。
耳をすまして。
立ち止まって。
レガ ロガの世界だ!
レガ その時々 時々 一瞬一瞬を
主の時を 捉えて。
ロガ 立ち止まって!!
落ち着いて、静かに 考える。
主の声を 吟味する。
詩編に書かれている
セラも 音楽表記ではない。
“止まる”
“立ち止まって 静まって 考える!”
主の言われている事を、吟味し 考える。
主の真理から絶対はみ出さないで
その中にずっと居続けながら 主の声を聞くのだ。
静かに語り続けられる主の 声を、耳を澄まして聞く。
主が造られた私たちの 脳細胞 脳回路はそれを
必要としている。
そうしないと、理解につながる、ブランチ 枝が
脳回路に造られない。
自分で大声を張上げて祈っていても 聞こえないけれど
落ち着いて 主の声に耳を澄ませると 聞こえる。
良く 喫茶店(今はこんな言葉を使わないのかな)で
音量が大きい音楽をかけている所がある。
相手の話し声も殆ど聞こえず、会話も出来ない。
あれは、私にはとても 苦痛。
人と話をするなら、静けさが必要なのに。
音楽は、実は生活の一部だけれど、静かに聞くのが良い。
味わえない 吟味できない。
音量の大きい ロックミュージックなど 苦手。
思索が 乱れる。
自分の主張を 訴えるのに 声の音量は 関係ない!
祈りの回数の多さには 関係ない。
10回は聞かれなくて 11回は 祈りが聞かれる
ポイントなんて別の宗教の話!
アメリカのデボーションの書に、
“あなたの 後もう一歩の祈りが足りなくて
主が働く事が出来ないのです。“と
聞くと当然のように 思うわれる事が書かれていたけれど、
今思い出すと、それは主の声ではないと はっきり分る。
人の作り出した考えだ。
祈りさえ 努力の世界にすり替わっている。
主の言われた、与えて下さった、安息から生きる事と
反している。
そんな 主の声ではない教えが ちまたに氾濫している。
人を 間違った考えに導く。混乱をさせる。
自分は 祈り足りないから 駄目なんだと。
主は人に 妨げられる事など 実は何もない。
主が望めば 主に逆らう人にも 直接話しかける事もできる。
神なんです 主は。
王の王 主の主 全宇宙の王 神なのだ。
民数記22を読むと 分る。
偽預言者バラムにだって 直接語りかけ、一時的にだけれど、
目を開き、ご自分の望む預言を
バラクに対して 語っている。
ロバにさえ 話しかけられるのだ。
しかもロバにも 人の言葉を話させる。
主は オールマイテイ。
Wow なんて スゴい、大きなお方!!!
こんな 方が 私達の アバ父神なのだ!
実は 主の声を本当に 聞くのが 祈り。
主と同じ目線で 物事を見る事。
丁度 ラジオの番組を 合わせるように。
周波数を合わせるのだ。
主の御心に入る。
絶えず祈りなさい。
これ もし 修行僧の様に、どこかの部屋に
常にこもりながらする事だとしたら
普通の人には 無理だ。
24時間祈りのチェーンだって
誰かが 祈りをやめたら 神が 働けないの?
とても 変。
でも テフィラー 祈りが 何で有るか
理解できると、ああ 実に 常に祈りなさい
の意味が分る。
私達の意識が 常に主に直結していること。
何をしていても。
小さい子供が 常にママの声を求めているのと
同じ。
一心同体だ。
そして 主の真理から はみ出ないで
じっとその場所から主の声の下で 主の声の中で
主の声を聞く事なのだ。
これは、既に主の中に、エデンの園に居る事が
分らないと、分らない内容だけれど。
主の心を変えるためではない。
誰かの祈りで、主の御心を変えるなんて
これまた 別の宗教の話。
主は 絶対にぶれないお方。
主の御心は 常に定まっている。
実は自分の意識が 見方が変わるためだ。
主と同じ目線から 物事を見る事が出来るように
その中に入って行く事。
それが 祈り。
ぴったり主と同じ心になる。
イエスさまも アバ父が 語られたら語り
黙っていたら黙る。
癒しなさいと言えば 癒す。
父を 離れて何も出来ないとは そういう事だ。
だから 主の御心に入る祈りは、主と同じ目線で見る祈りは
あの 山をも動かす 言われた祈り。
私達の祈りの 力の度合いで 力づくで 動かすのではない。
動かすのは 主。
主権は 主にあり。
主の御心にぴったり沿ったら 開く!
全ては 主の御心のままだ。
だから 主がうっかりしていて
失敗したなんてことはない。
逆は 有るけれどね~ 人間には。
だから 心配しなくて良いのだね。
主は 私達の、行動、思い、祈りの度合いに
何一つ妨げられずに
この世界全てを 支配している。
思いのままに 全てを TOV(主の意図した)の
状態に導く。
全てを用いて。
自分の心に、はっきり 願いを思い描いて
それを 熱心に、熱心に 聞かれるまで
強引に 強行に祈り込めば、
あなたの望みの物は 祝福
繁栄は、手に入る的な考えは
そうとう ニューエージ思想に汚染されている。
そんな 教えをしていれば、主に対しての冒涜だ。
しかし主がいつか 正しく裁いて下さる。
祈りは 主の声の下にいる 主の声の中にいて
その声を受けとる。
主と 対話のキャッチボールをしながら。
願いも 嘆きも 痛みも 喜びも 感謝も
全て、全て 正直に話しながら。
自分の 要求を 大きな岩を動かすように 力を込めて
力むのではない。
脱力、脱力!!!!
井戸水を 一生懸命くみ出すように、
ガソリンスタンドで ガソリンをポンプする、
くみ出すように するのではない。
そんな祈りではない。
上から 流れて来るそして、内側から 主が語られる声を聞く。
100%主の御心を受ける。
祈りは 主 正しい裁判官でもある方に
訴える事でもある。
正しく 物事を 処理して頂く。
祈れないと 思う時は
赤ちゃんのようになって。
主の腕の中で ただただ主の声を聞く。
流れているものを 受けとる。
静まって じっと 考える。
主は 静けさの中に 常に語られるからだ。
痛みも 悩みも 主の目線で 主と 共に見て頂く。
痛みにも 傷にも、ひずみにも そのまま向き合う。
ホモ ロゲオだ。
事実をそれ以上 それ以下でもなく そのままの姿を現実を
主と 共に見る。
そして 破壊されたこと 侵害されたこと
英語の方が ぴったり Violation 精神的にも 肉体的にも
された事を 嘆き悲しむ。
癒しは そこから 来る。
祈りは 主の中にいること その中で 主の声を聞く。
自分の 訴え 願い 何もかも 主に打ち明けて。