小羊の花嫁とは...(2) | 何とかなるさ...の世界!?

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いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

以前に小羊の花嫁について、聖徒となるクリスチャンが花嫁になるのではなく、新しく来る聖なる都エルサレムが花嫁であると書きました。

 

この新しい聖なる都エルサレムは、栄光の教会であり、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないキリストの体(教会)の一つ一つの器官(クリスチャン)の集大成なのだと思います。

 

エペソ5:27

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

 

第一コリント12章

12)ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

13)なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

14)確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官からなっています。

15)たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さなくなるわけではありません。

16)たとい、耳が、「わたしは目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

17)もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

18)しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

19)もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

20)しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

21)そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

22)それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

23)また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見栄えのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

24)かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

25)それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

26)もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

27)あなたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 

黙示録19:8

花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

 

その花嫁である聖なる都エルサレムが、聖められた体の一つ一つの器官を成す聖徒たちを都の中に取り込むことによって、調和された完全なる栄光の教会を完成させることになるのでしょう。