本名

紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある「藤原香子」(かおりこ / たかこ / こうし)とする角田文衛の説もある[7]。この説は発表当時「日本史最大の謎」として新聞報道されるなど、センセーショナルな話題を呼んだ。 但し、この説は仮定を重ねている部分も多く推論の過程に誤りが含まれているといった批判もあり[8]、その他にも、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら勅撰集や系譜類に何らかの言及があると思えるのにそのような痕跡が全く見えないのはおかしいとする批判も根強くある[9]。その後、萩谷朴の香子説追認論文[10]も提出されたが、未だにこの説に関しての根本的否定は提出されておらず、しかしながら広く認められた説ともなっていないのが現状である。また、香子を「よしこ」とする説もある。

その他の名前編集

女房名は「藤式部」。「式部」は父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と同母の兄弟惟規の官位によるとする説とがある[11]。

現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、「紫」のような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無くこのような名前で呼ばれるようになった理由についてはさまざまに推測されているが、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている[12]。

また、上原作和は、『紫式部集』の宣孝と思しき人物の詠歌に「ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ」とあることから、幼名・通称を「もも」とする説を提示した[13]。今後の検証が待たれる。

婚姻関係編集

紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている[14]。

『尊卑分脈』において紫式部が藤原道長妾であるとの記述がある(後述)ことは古くからよく知られていたが、この記述については後世になって初めて現れたものであり、事実に基づくとは考えがたいとするのが一般的な受け取り方であった。しかしこれは『紫式部日記』にある「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」といった記述が存在することを根拠として「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」とした『尊卑分脈』よりずっと後になって成立した観念的な主張に影響された判断であり、一度式部が道長からの誘いを断った記述が存在し、たとえそのこと自体が事実だとしても、最後まで誘いを断り続けたのかどうかは日記の記述からは不明であり、また当時の婚姻制度や家族制度から見て式部が道長の妾になったとしても法的にも道徳的にも問題があるわけではないのだから、尊卑分脈の記述を否定するにはもっときちんとしたそれなりの根拠が必要であり、この尊卑分脈の記述はもっと真剣に検討されるべきであるとする主張もある[要出典]。

日本紀の御局編集

『源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が作者を褒めてきっと日本紀(『日本書紀』のこと)をよく読みこんでいる人に違いないと言ったことから「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話があるが、これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり本人には苦痛だったようであるとする説が通説である。

“「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」(『紫式部日記』)”

生没年編集

当時の受領階級の女性一般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため紫式部の生没年についてはさまざまな状況を元に推測したさまざまな説が存在しており定説が無い状態である。

生年については両親が婚姻関係になったのが父の為時が初めて国司となって播磨の国へ赴く直前と考えられることからそれ以降であり、かつ同母の姉がいることからそこからある程度経過した時期であろうとはみられるものの、同母の兄弟である藤原惟規とどちらが年長であるのかも不明であり、以下のようなさまざまな説が混在する[15]。

970年(天禄元年)説(今井源衛[16]・稲賀敬二[17]・後藤祥子説)

972年(天禄3年)説(小谷野純一説[18])

973年(天延元年)説(岡一男説[19])

974年(天延2年)説(萩谷朴説[20])

975年(天延3年)説(南波浩説[21])

978年(天元元年)説(安藤為章(紫家七論)・与謝野晶子・島津久基[22]説)資料・作品などから1008年(寛弘5年)に30歳くらいと推測されることなどを理由とする。

また、没年についても、紫式部と思われる「為時女なる女房」の記述が何度か現れる藤原実資の日記『小右記』において、長和2年5月25日(1014年6月25日)の条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部について残された明確な記録のうち最後のものであるとする認識が有力なものであったが、これについても異論が存在し、これ以後の明確な記録がないこともあって、以下のようなさまざまな説が存在している[23]。

1014年(長和3年)2月の没とする説(岡一男説[24])。なお、岡説は前掲の西本願寺本『平兼盛集』の逸文に「おなじみやのとうしきぶ、おやのゐなかなりけるに、『いかに』などかきたりけるふみを、しきぶのきみなくなりて、そのむすめ見はべりて、ものおもひはべりけるころ、見てかきつけはべりける」とある詞書を、賢子と交際のあった藤原頼宗の『頼宗集』の残欠が混入したものと仮定している。

1016年(長和5年)頃没とする与謝野晶子の説[25](『小右記』長和5年4月29日(1016年6月6日)条にある父・為時の出家を近しい身内(式部)の死と結びつける説が有力であることによる)

1017年(寛仁元年)以降とする山中裕による説(光源氏が「太上天皇になずらふ」存在となったのは紫式部が同年の敦明親王の皇太子辞退と准太上天皇の待遇授与の事実を知っていたからであるとして同年以後の没とする)[26]

1019年(寛仁3年)『小右記』正月5日条に実資と相対した「女房」を紫式部と認め、かつ西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文を、娘・賢子の交友関係から『定頼集』の逸文と推定して、寛仁3年内の没とする)萩谷朴説[27]、今井源衛説

1025年(万寿2年)以後の没とする安藤為章による説(「楚王の夢」『栄花物語』の解釈を根拠として娘の大弐三位が後の後冷泉天皇の乳母となった時点で式部も生存していたと考えられるとする)

1031年(長元4年)没とする角田文衛による説(『続後撰集』に長元3年8月(1030年)の作品が確認出来ることなどを理由とする)[28]

墓所編集

紫式部の墓と伝えられるものが京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されている。紫式部の墓とされるものは小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている。この場所は淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われ後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。この地に紫式部の墓が存在するという伝承は、古くは14世紀中頃の源氏物語の注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』、『山州名跡志』にも記されている。1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備されており[29]、京都の観光名所の一つになっている。

その他編集

貴族では珍しくイワシが好物であったという説話があるが、元は『猿源氏草紙』で和泉式部の話であり、後世の作話と思われる。