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優しさは時に人を縛る……映画『ギルバート・グレイプ』が描く、家族の呪縛と静かな再生の物語。ジョニー・デップと若きレオナルド・ディカプリオが織りなす、忘れがたいヒューマンドラマをレビュー。
ギルバート・グレイプ
原題:What's Eating Gilbert Grape(何がギルバート・グレイプを食べているのか(比喩))
製作年:1993年(アメリカ)
ジャンル:ヒューマンドラマ
監督:ラッセ・ハルストレム
脚本/原作:ピーター・ヘッジズ
キャスト:ジョニー・デップ、レオナルド・ディカプリオ、ジュリエット・ルイス、and more…
『ギルバート・グレイプ』のあらすじ/概要
物語の舞台はアイオワ州の小さな田舎町、エンドーラ。牧歌的だがどこか閉塞的な空気が漂うその町で、ギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は、肥満体で引きこもりの母ボニー(ダーレン・ケイツ)と、知的障害を抱えた弟アーニー(レオナルド・ディカプリオ)、そして姉と妹と共に暮らしている。かつて家族を残し、自ら命を絶った父親の不在が、家全体に影のように重くのしかかっている。
ギルバートは、町の小さな食料品店で働きながら、アーニーの面倒を見続ける日々。そんな日常の中に、旅の途中でトレーラーに乗って町にやってきた少女ベッキー(ジュリエット・ルイス)との出会いが、彼の中にある微かな「希望」に火を灯す。
『ギルバート・グレイプ』感想/レビュー/解説/考察(ネタバレ含む)
大好きな映画であり、何度も観ていますが、今回改めて鑑賞したので、長文レビューをいたします。
その前にまず本作、『ギルバート・グレイプ』の原題は、『What's Eating Gilbert Grape』であり、直訳すると『何がギルバート・グレイプを食べているのか』という、『何がジェーンに起こったか?』みたいなタイトルであり、これは比喩です。何が主人公であるギルバート・グレイプを縛り、蝕んでいるのかという意味になります。知らんけど。多分そう。
家族という呪縛、優しさという枷
ギルバートは「優しすぎる男」である。
まるで私のようだ。
だがその優しさは、称賛されるべき美徳であると同時に、彼自身をひどく縛りつける重い鎖でもある。
知的障害をもつ弟・アーニーの世話を、ギルバートは「当然」のように担っている。実際ギルバートにとっては当たり前のことであり、誰に強いられるでもなく、怒りも露わにせず、ただ粛々と。それはまるで、家族という名の宗教に殉じる信徒のようである。彼はアーニーを「可哀想」だと思っている。しかし、同時にその「可哀想」を通して自分自身の存在意義を保ってもいるようにも見える。
母親のボニーは、かつて町一番の美人だったが、今ではその面影もない。極端な肥満で、長年ベッドから立ち上がることすらなかった。彼女は物理的にも象徴的にも「家」の中心に横たわり、その静かな重さで家族全員の人生を引き留めている。
ギルバートは、そんな母を恥じてもいる。しかし同時に、深く愛してもいる。その矛盾が、彼の中で渦を巻く。ある種の呪縛である。愛は時に、理不尽に人を縛る。その愛の正しさを疑うことすら許されない枷の中で、彼は今日も息をしている。
自由を望んでいるようで、けれど、自ら檻の中にとどまることを選んでしまう。「水槽の中のロブスター」のように。
その姿に、観る者は知らず知らずのうちに、自身の影を見出すのではなかろうか。
実際長男であり、裕福な家庭で育ったわけでもない私個人としては、ギルバート(イケメン)に自分を強く投影させる結果となった。
同じイケメンやし。
人生における「優しさ」とは、どれほど厄介なものだろうか。
それは刃を持たない分だけ、鈍く、深く、確実に心を傷つける。
ディカプリオの怪演と、静かな映像美
レオナルド・ディカプリオの若き日、アーニーという存在が、彼の名を一気に世界に知らしめたのも、無理はない。
彼の演技は「演技」という言葉の枠を超えている。そこにいるのは、まぎれもなく「アーニー」そのものである。
過剰な表現も、過度な演出もない。ただ、身体の動き、視線、声、そして笑顔に至るすべてが、彼の内側から自然と溢れ出している。まるで、生まれながらにアーニーだったかのように。
そしてそれを包み込む映像がまた、見事に静かである。
田舎町エンドーラの風景は、どこまでも平坦で、淡く、静謐で、退屈でさえある。だがそれは意図的な退屈さであり、この物語の舞台においては「時間が止まっていること」が重要なのである。牧歌的でありながら、対照的に母を好奇の眼差しで見られたり、鬱屈している面もあり、閉塞的なエンドーラの町は、ギルバートだけではなく、グレイプ家を象徴する縮図のようでもある。
母は寝たきり、アーニーは変化を許されない子ども、姉や妹たちは停滞し、ギルバートだけが変化を望みながらも動けない。
その「凍った時間」の中で、唯一アーニーだけが声を上げ、動き回り、叫び、登る。まるで母が言うように、無邪気な太陽、サンシャインのように。
その無邪気さが、時にギルバートを苛立たせ、時に彼を支えている。
優しさとは、もしかしたら「壊したいほど愛しい」という感情の別名かもしれない。
母という「岩」の存在
この物語において、母親はただの背景ではない。彼女は当映画において「家自体」と同じく、明確な「象徴」である。
外に出ることもなく、家の中で孤島のように存在し続けた彼女は、家族全員の「止まった時間」の具現でもある。誰もが彼女を動かせず、変えられず、見ないふりをしてきた。まるで岩のように、そこに在り続けるしかないものとして。
だが、その岩がついに「動く」時がくる。
アーニーが警察に連行され、家に帰ってこないと知った母は、自ら立ち上がり、車に乗り、警察署へ向かう。
このシーンは言葉にできないほどの衝撃と静かな感動を伴う。
彼女は母親として最後の力を振り絞り、「家族」のために一歩を踏み出す。
それはほんのわずかな変化かもしれない。けれど、止まっていた時計の針が動き出す瞬間を、確かにこの映画は映し出している。
そして、再び立ち上がり、自らの足で階段を登って2階のベッドに横たわった、そんな母の死……。それは単なる悲しみではなく、むしろ「解放」として描かれる。
彼女の死後、象徴的である家と一緒に彼女はギルバートの手によって焼かれ、灰となる。「灰は灰に、塵は塵に…。」
その灰の中から、ギルバートはようやく、自分の人生を始める準備ができるのである。
ベッキーという風、そして未来
ベッキーの登場は、全体の空気を柔らかく変える。
彼女はトレーラーハウスに乗って、町に「風」としてやってくる。どこから来たのか、どこへ行くのかはわからない。だが確かに、彼女は町の空気を変え、ギルバートの心を揺らす。
ベッキーは強くもなく、賢くもない。ただ、真っ直ぐにギルバートを見つめ、彼の声なき苦悩に耳を澄ます。その柔らかさが、ギルバートの中に眠っていた「希望」という名の灯火に触れる。
「どこへでも行ける」
ラストの台詞は、ベッキーという風が彼の心に運んできたものだ。
それまでギルバートの中にあったのは「ここでしか生きられない」という諦念だった。しかし今、彼は言える。「どこへでも」と。
それは不確かで、不安で、けれど確かに美しい一歩だ。
人生において、そうした「予感」の瞬間が、最も尊い。
総評:終わりから始まる、静かな再生の物語
『ギルバート・グレイプ』は、家族愛の美しさを描く映画であると同時に、それよりも、「家族という愛が時に呪縛にもなる」という現実と、それをどう乗り越えるかという問いを、静かに、詩的に、しかし真っ直ぐに投げかけてくる。
この映画が教えてくれるのは、「優しさ」とは何か、「愛」とは何か、そして「自由」とはどう獲得されるのかという、誰もが直面する問いへのヒントである。
母の死と家の火葬、それは終焉であり、同時に再生でもある。
「別れ」があるからこそ、「再会」や「旅立ち」が可能になる。
ギルバートが選んだ一歩は、彼の人生にとって初めての「自分の選択」だったのかもしれない。
そう。父の自死も、母親が引き篭もったのも、ギルバートが町に止まり家族を守るのも、「どこへでも行ける」と言うのも、全て他の誰でもない。己自身の選択である。
久しぶりに観ても、やはり静謐で詩的で素晴らしい映画。観る度に新たな発見もあり、静かな涙が溢れる。
その静かな余韻は、まるでベッキーの風のように、見終わったあとも心に吹き続けている。
評価:★★★★☆(4.5/5)
本当は演出も脚本も演技も全て素晴らしく、何が悪いのかすらよくわからないので、5/5でも全然いいんだけれど、劇的でもなく派手さも希薄であり、号泣するということもないため(それで全然いいのだけれど)、この評価。