前回の投稿から1ヶ月ほど経ち、肩もほぼ不自由なく動くようになってきた。
先日誕生日だったが、この日はちょうどオフだったので、教育実習の手続きのため母校に行った。
書類に年齢を書く欄があって、今日で22才になったことを世間話として伝えると、担当の先生が急にいなくなった。しばらくして戻ってきた先生の手にはアイスティー微糖(高校の自販機で売っている紅茶)が握られていた。それを「誕生日おめでとう」といって僕に渡してくれて、優しすぎて感動した。しかも高校時代よく飲んでいた懐かしの(もちろん買えるが今はあまり飲んでいない笑)紅茶で、心がホッと温まる思いであった。

家族からもケーキとプレゼントがもらえて、本当に嬉しかった。生きていることをお祝いする誕生日という文化は、人間らしくて好き。
先日生活保護関係の手続きを行う福祉局の職員につかみかかった被告人の裁判を見た。粗暴犯で何度も服役している年配の男性である。記憶が正確ではなく、現住所が正確に言えなかったり、同じことを繰り返し言うので、裁判は長引いていた。
ただ裁判は、こうした証拠により明確な事件でも、被告人が事情を話す機会を確保している点で公平性は徹底されていると思う。これが法廷で罪の有無を明らかにしていく、弾劾主義のメリットかもしれない。
責める側 VS 犯罪者
の対立構造である糾問主義では、もはや今回のような被告人であれば裁判すらしないのではなかろうか。被告人は何度も罪を犯す悪いやつだから、的当に牢屋に入れておけ!となると思う。
悪いことをした人を責めるというのは、楽だが、解決が難しい課題からは目を背けていると思う。犯罪を繰り返してしまう構造を変えられないか、被告人が更生するにはどうしたら良いか。 この論点に答えを与えることは困難なので、できることをひとつひとつ行うしかない。
例えば、同じ罰を受けるにしても、その決定過程を被告人が知っているかどうかでは納得度が違う。理由に納得がいかない場合でも、少なくとも罪と罰の関係について人より考えることになる。この考えの深さが、更生の一助となる。
また、服役中も、人として尊重されることが大切である。きれいごとだと言われることもあるし、刑務所に地獄のような環境を求める人もいる。ただ、刑務所を出たらいきなり自由に暮らすことになり、適応できず刑務所に戻る人は残念ながら多くいる。現実との乖離が大きいと、再犯不可避となってしまう。特に詐欺や窃盗の事例では、出所後にギャンブルや風俗にお金を使ってしまい、再犯につながる例も多い。こうした人が欲をコントロールして生きていくためは、罰を与えつづけるしかないのだろうか。