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※尚、紹介するのは近代的な偉人を中心とし主にウィキペディアを参照してます

ライト兄弟(らいときょうだい)は、アメリカ出身の動力飛行機の発明者で世界初の飛行機パイロット。世界最先端のグライダーパイロットでもあった。自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、1903年に飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した。




(*ウォルバーライト 兄)
ウィルバー・ライトWilbur Wright 、1867年4月16日 - 1912年5月30日
ライト家の3男でオーヴィルの兄。インディアナ州東部の小さな村ミルビル(Millville)出身。





(*オーヴィルライト 弟)
オーヴィル・ライトOrville Wright1871年8月19日 - 1948年1月30日
ライト家の4男でウィルバーの弟。オハイオ州デイトン出身。


2人は牧師ミルトン・ライトの息子として生まれた。一家には他に3人の兄妹(長兄ルクラン、次兄ローリン、妹キャサリン)がいたが、母スーザンは結核により1888年に早逝した。

兄弟は生涯の大部分をデイトンで過ごした。グライダー実験と最初の動力飛行をノースカロライナ州キルデビルヒルズで済ませた後の飛行活動は、現在ライト・パターソン空軍基地の敷地内にあるハフマンプレーリー(一般見学可能)を中心に行われた。だがウィルバーの晩年には再びキルデビルヒルズで実験を行っている。



1909年に兄弟はライト社(Wright Company)を創業するが、ウィルバーの死後の1915年にオーヴィルは会社を売却している。その後会社はグレン・L・マーティンと合併し、今のロッキード・マーティンとなった。









「時代」

時は19世紀末、すでに陸には車が走り、海や川では蒸気船が幅を利かせ、そして最初の有人飛行をしたモンゴルフィエ兄弟に始まる熱気球から派生した飛行船、すなわち「空気より軽い飛行機」は存在していた。しかし、「空気より重い飛行機」の動力飛行は全くの発展途上にあった。

唯一の手掛かりとしてジョージ・ケイリーのグライダーを基に研究がオットー・リリエンタールによって進められていた。しかし当時はまだハイラム・マキシム等、多くの研究家は正しく飛行のための理論を確立するに至らず依然として暗中模索の時が続いていた時代だった。

1896年のリリエンタールの事故死後、これを皮切りにライト兄弟は飛行機を完成させることを考え、これが史上初の動力飛行成功へ向けてのきっかけとなり、時代を新たに拓く成功への一歩となった。




「実績」

兄弟は1903年12月17日にノースカロライナ州キティホーク近郊にあるキルデビルヒルズにて12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」によって有人動力飛行に成功。兄弟が初飛行に成功した時の写真は、2人に撮影を頼まれた観客の一人、地元の海難救助所員のジョン・T・ダニエルズが撮ったもので、合計4回の飛行が試みられた。

・1回目: 12秒、120ft(約36.5m)

・2回目: 12秒、175ft(約53.3m)

・3回目: 15秒、200ft(約60.9m)

・4回目: 59秒、852ft(約259.6m)


見落とされがちであるが、この飛行は強風が吹く(理由は後述)彼らの実験場で風に向かって飛んだ記録であることに(もしそれ以前の「跳躍」とみなされている他者による実験と比較する時などには)注意が必要である。対気的な距離は対地的な距離よりももっと長い。

オーヴィルが写真技術を持っていたため良い記録写真が多く撮られていたが、1913年のグレートマイアミ川の洪水でかなりの数の乾板が損傷した。残ったものは米国会図書館ライト兄弟アーカイブに保管されている。

それまでの他者による飛行の試みの多くが跳躍その延長のものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行ない、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初世間はこれを理解しないどころかむしろ冷淡であり、国内では様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられたりさえしていた。

ライト兄弟は実験に成功したが、世間はこれを信用をしないばかりかこぞって反発した。サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・ニューカムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。

逆に後年ヘリコプターの実用性が議論されるようになった時期、、オーヴィルは1936年の書簡中で「ヘリコプターには根本的な問題がある」、「ヘリコプターの開発には資金がかかりすぎる上に商用性もおぼつかないので誰もとりかかられないだろう」と書いている。



「成功のポイント」

それまで多くの研究者の飛行への挑戦がことごとく失敗を重ねて来たのに対し、ライト兄弟は当時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、また同時に技術的工学的に着実な手法を取った。風洞実験によって得たデータを元に何機かのグライダー試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の改良を行った。研究の初期には、当時の飛行機開発の最先端を行っていたサミュエル・ラングレー教授から研究資料の提供を受けていたりした。

グライダーによる実験の回数もリリエンタールらに比べてはるかに上回り、多くの実験データを収集するとともに飛行技術を身につけることができた。グライダーを基礎にまず操縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加するのが彼らの戦略であり、他者のプロジェクトは動力機体の製作しか眼中になかったと本人たちが述べている。兄弟の成功に先立つ1903年10月7日と12月8日の2度、兄弟も教えを請うたサミュエル・ラングレー教授の飛行機エアロドロームは飛行テストを実施したが、どちらも機体は飛び立つことなく川へ転落した。

スミソニアン協会会長の地位にあり、アメリカ政府援助のもと主導した実験の失敗はラングレー晩節の評価を地に堕とした。ラングレー教授のプロジェクトは、まず無人動力飛行機で実験を行い、次に有人動力飛行機を飛行させるというものであり、パイロットにとっては「ぶっつけ本番」を強いられるものであった。
飛行記録からするとオーヴィルの方が操縦に長けていたようである。兄弟は実験回数を増やすために「安定した強風が吹いている場所」を気象台に問い合わせ、故郷から遠く離れたキティホークをその場所に選んでいた。安定した強風が必要だったのは、グライダーを凧のように繋留索で空中に固定して、安全かつ安定に実験をするためである(リリエンタールは風がどの方向から吹いてもいいように人工の丘を作った。また墜落で命を落とした)。

また、兄弟は自転車店を経営することで研究に必要な資金を自弁できた上、自転車の技術を活用することも可能であった。例えば2基のプロペラはチェーン駆動であり、回転の向きを左右で逆にしてトルクを打ち消すためにチェーンを片方交差するなどしている。

一方で彼らの機体は機体の前方に「水平安定板兼昇降舵」があるなど、安定性の面に問題もあり、実際後年の再現プロジェクトはその点で苦労している。しかしながら、安定性と操縦応答はトレードオフであり、ライト兄弟は操縦応答を最優先した飛行機で飛行してこそ、本物の飛行であるという強い信念を持っていた。そして単なる精神論だけでなく、兄弟は滑空飛行を繰り返し操縦に熟練したことによって、成功を得た。



「ライトフライヤー号の復元」

ライト兄弟の初飛行100周年にむけて、ライトフライヤー号を復元する研究がいくつか行われたが、コンピュータシミュレーションでは姿勢が安定せずに普通に飛べず、完成した復元機に至っては離陸すらできなかった。ライト兄弟が成功したのは当日の強風と、それをものともしない兄弟の操縦技術のおかげだという見解もある。



「飛行成功後の苦悩と闘い」

「空気よりも重い機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所にも認められたライト兄弟を待ち構えていたものは、必ずしも栄光ではなかった。

ライト兄弟の成功と飛行技術に関する特許取得は、飛行機が兵器として注目されていたこともあり、争いや妬みの対象にもなった。特に兄弟にあからさまな敵意を向ける2人の人物がいた。その1人はチャールズ・ウォルコットである。有人動力飛行に失敗したラングレーの後を継いでスミソニアン協会会長の地位に就いた彼は、民間人であるライト兄弟の偉業を決して認めず、スミソニアン博物館航空史に「ライトフライヤー号」を一切展示しなかった。

もう1人はグレン・カーチスである。腕の良い飛行家だった彼は、航空会社を設立し、何かとライト兄弟と特許に関して係争した。しかし、冒頭の裁判所の判断もあり、ことごとく敗訴していた。カーチスライト兄弟パイオニアたる地位を否定すれば特許について有利な立場になれると考えていた。

カーチスウォルコット手を結び資金援助を得て、1914年5月と6月にラングレーのエアロドローム再飛行実験を行ない成功した。ところが、実はエアロドロームにはカーチスの手により35箇所もの改造が加えられており、もはや全くの別物になっていた。実験結果を受け、ウォルコットはスミソニアン協会年次報告に「初めて飛べる飛行機を作ったのはラングレー」との声明を発表、ご丁寧に1903年当時の形状に戻したエアロドロームを、人間を乗せて飛行可能な世界初の飛行機と表示してワシントン国立博物館に展示した。すでに兄を亡くしていた弟オーヴィルは抗議したが協会は一切無視、それどころか年次報告に執拗なまでに声明文を繰り返し掲載した。そのため、一般にも世界初飛行に成功したのはラングレーだと思い込む者が増えた。

このような不毛な争いの最中に、飛行技術は急速に進歩していき、ライト兄弟の持つ特許や飛行技術は陳腐化していった。一例として、ロール制御の手段としてのたわみ翼は、補助翼いうより完成度の高いものに進歩していた。1908年にはフランスのシャンパーニュで、世界最初の飛行大会が開催された。この大会ではアンリ・ファルマンが飛行時間、ユペール・ラタムが高度、ルイ・ブレリオ速度の各部門の優勝者となった(こんにちの飛行機の形態が完成したのは、彼らの機体であった)。しかしライト兄弟は優勝はおろか入賞さえ果たせない惨めな成績で終わった。そしてグレン・カーチスもこの大会に出場し、優勝こそ逃すもめざましい成績を示した。この大会は、もはやライト兄弟が、凡百の飛行家のふたりでしか無い事を示した。

ライト兄弟の機体には、遅れて登場した他の飛行機と比べて大きな欠点があった。操縦応答性優先し安定性が極めて低い事。離陸の際にレールを敷く必要がある事。プロペラがチェーン駆動であるため、エンジン出力向上に限界があった事。1910年にライト兄弟はライトB型を完成させる。これは水平尾翼を機体後部に移して安定性を高め、車輪を装備しレールを敷く必要を無くしたものであったが、チェーン駆動だけは相変わらずであった。

1911年9月17日カルブレイス・ペリー・ロジャーズという飛行家が、このライトB型を小型化したEX型を駆って、初のアメリカ大陸横断飛行に挑んだ。しかし何度も墜落を繰り返し、目的地にたどり着いたのは11月5日部品交換と修理を繰り返した結果、出発時と同じ部品は尾翼と主翼を支える支柱のみで、出発時と同じ機体とはとても言えない内容であった。そんな中、失意と法廷闘争の疲労もあり、ウィルバーは1912年、腸チフスで死去した。

晩年のオーヴィルには、飛行機を発明したことを後悔する旨の言動がある。1942年オーヴィルはヘンリー・フォードに対して、自分が動力飛行機を発明したことを悔いる内容の手紙を送り、1943年にアメリカ特許局設立150周年記念行事に参加した際には、最近100年間の十大発明は何かと問われ、あえて飛行機をその中から除外している。






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