家庭がすでに「仕組み」として回っていると理解した上で、
それでもそこに感情を置きたいと選ぶ人もいます。
それ自体が間違いだとは思いません。
ただ、その選択には、はっきりした覚悟が要ります。
感情を置くということは、
相手が同じだけ返してくれることを
前提にしない、ということです。
分かってほしい。
向き合ってほしい。
気持ちを取り戻してほしい。
そうした期待を抱いたままでは、
この選択は成立しません。
なぜなら、
仕組みとして家庭を見ている相手に、
感情の深さを求め続けると、
どうしても失望が積み重なるからです。
家庭に感情を置く覚悟とは、
「返ってこないかもしれない」ことを
引き受ける覚悟でもあります。
愛されるために置くのではない。
関係を変えるために置くのでもない。
自分が、そこに感情を持ち続けたいから置く。
その主体が自分にあるかどうかで、
この選択の意味は大きく変わります。
相手の変化を期待しながら感情を置くと、
それは待ちになり、
消耗になり、
やがて不満になります。
一方で、
変わらない相手を前提にした上で、
それでも自分はこの形を選ぶ、
と決められるなら、
感情は支配にも自己否定にもなりにくい。
家庭に感情を置くことは、
相手を取り戻すための戦略ではありません。
自分がどう生きたいかという、
選択の問題です。
どちらを選ぶかに正解はありません。
ただ、
前提を見誤ったまま選ぶと、
苦しさだけが長引きます。
家庭を仕組みとして受け取るのか。
それでも感情を置くのか。
あるいは、距離を引き直すのか。
いずれにしても、
必要なのは「正しさ」ではなく、
自分が引き受けられる現実を
見極めることなのだと思います。
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