不倫を、夫側の責任問題として捉えること。


それ自体は、とても理解できます。

結婚は、夫婦になるという契約です。
法的にも社会的にも、
その約束を破ったのは夫だ、という見方は正しい。

ただ、この契約はとても包括的で、
一方で、あまりに曖昧でもあります。

心が動いてしまったとき。
気持ちが離れてしまったとき。
そのときどうするか、という特約は、
どこにも明確には書かれていません。



起こりうることだった、という現実。

不倫は、
「してはいけないこと」であると同時に、
起こりうることでもあります。

だから、実際に起こってしまったとき、
妻が「自分の尊厳が奪われた」と感じるのも、
とても自然な反応です。

裏切られた。
否定された。
自分の存在が軽く扱われた。

そう感じてしまうのは、無理もありません。

でも同時に、
夫にとっても、それは想定外であることが多い。



攻撃ではなく、無関心という状態。

多くの場合、
夫は「妻を傷つけてやろう」と思って
不倫に向かっているわけではありません。

恨みがあるわけでも、
復讐したいわけでもない。

ただ、結果として、
妻に対して無関心になってしまった。
それが、現実に近い状態であることが多いのです。

無関心は、
意図的な攻撃よりも分かりにくく、
そして、受け取る側にはずっとつらい。

なぜなら、
責める理由が見えにくいから。



善悪だけでは整理できないところ。

不倫を正当化するつもりはありません。
責任があるのは夫です。

ただ、
「夫は妻を攻撃した」
「妻の尊厳を踏みにじろうとした」
と整理してしまうと、
見えなくなるものがあります。

それは、
夫自身も、自分の変化を
うまく理解できていなかった可能性。

気づいたときには、
もう戻れない場所まで来ていた、ということ。



理解は、許すこととは違う。

この視点は、
許すためのものではありません。

夫を庇うためでも、
妻が我慢するためでもない。

ただ、
起きていることを、
現実に近い形で捉えるためのものです。

善悪だけで切り分けると、
感情は整理できても、
状況は動かないことがある。

現実を理解すると、
少しだけ、自分の立ち位置が見えてくる。

それが、
次にどうするかを考えるための、
静かな土台になることもあります。




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