彼と再会してから、
私は何度か、
『ああ、この人は私の深さを理解している』
と気づく瞬間があった。
それは大きな言葉で語られるものではなく、
優しさとして表に出るものでもない。
どちらかといえば、
ふとした沈黙の扱い方や、
私の言葉の選び方を尊重してくれる間合いの中に、
静かに宿っている。
たとえば、
私が過去のことを話すとき。
説明が難しい痛みや、
言葉にしづらい違和感を話すとき。
彼は、一度も
『こうした方がいい』とは言わなかった。
私の親への怒りや、
子ども時代に抱えた傷つきにも、
正論をかぶせてくることは決してなかった。
ただ淡々と、
「そうだよね」と無言で受け取り、
必要なところだけ
そっと寄り添ってくれた。
その姿勢が、
どれほど救いになったか分からない。
私の人生は、言葉にすると長くなるし、
どこかで途切れた呼吸を
自分で取り戻さなければいけない場面も多かった。
それを、
「大変だったね」ではなく、
「あなたはそうやってここまで来たんだね」と
受け止めてくれたのは、
人生で彼と、祖父だけだった。
理解するというより、
『否定しないまま置いておく』ことができる人。
その静けさの中で、
私は初めて、
『誰かに見せてもいい深さ』を実感した。
彼は、
私の弱さを慰めようとするのではなく、
強さを過大評価することもない。
ただ、
私という人間の輪郭を、
そのまま受け入れてくれる。
それがどれほど希少なことか、
大人になるほど分かってくる。
そして最近、
彼の視線の奥に、
その理解が「尊重」に変わっているのを感じる。
私の選択や、
私の速度や、
私の生活の仕方を、
ただ尊重してくれる。
要求もなく、
期待も押しつけず、
私の人生を『私のもの』として扱ってくれる。
だからこそ私は、
彼の人生にも手を出さないでいられるのだと思う。
理解された分だけ、
人は誰かを理解できる。
尊重された分だけ、
誰かの未来を邪魔せずに待てる。
こうして、
ふたりの関係は「説明」でつながるものから、
「理解」で重なりあうものへ
静かに変わりつつある。
その変化に気づける今が、
少し誇らしい。
