ある年代の女性たちにとって、
「妻である」という肩書きは、

長く『ちゃんとしている人』の象徴でした。




社会的信用、家族、安心――
そのすべてが「妻」という言葉に支えられていた。




だからこそ、もしその立場を失えば、
自分の存在まで否定されるような恐れを感じてしまう。



不倫相手や離婚した女性を見下す気持ちは、
実は他人に向けたものではなく、
「妻でなくなった自分」への恐れの裏返しなのだと思います。




軽蔑することで、
「自分はまだ安全圏にいる」という錯覚を保とうとする。
けれど、その構造が強ければ強いほど、
夫に裏切られたときの崩壊は激しくなる。






本当は孤独で、
誰かに認められたい気持ちがあるのに、
それを直視できないから、

『不倫相手』や『夫』という外の敵を設定し、

怒りの形で生き延びようとする。




けれどその生き方は、
怒りとともに「妻であること」にも縛られ続けることになる。




本来は、

『誰の妻でもなくても生きていける自分』に

立てた瞬間にこそ、ほんとうの自由がある。

けれど、多くの人にとってそれは、

自由ではなく『失墜』に見えてしまう。








社会の目を恐れてその構造を内面化してしまったとき、人はいつの間にか

自分を縛る社会の『加担者』になっているのかもしれません。







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