彼の中には、長いあいだ動かさなかった基準があった。
家族として、父として、組織の一員として。
それは正しさでもあり、同時に

自分の呼吸を静かに閉じこめる『柵』でもあったのだと思う。





私の方には、『これ以上望んではいけない』という

目に見えない天井があった。


 




お互いにちがう形で、

自分を守る檻を持っていた。



けれど、少しずつそれが溶けていった。




彼は、私の存在によって『柵』を越えた。


私は、彼のまなざしの中で『天井』をなくした。






おたがいに何かを壊したわけではなく、

基準そのものが静かに書き換えられていった。





誰かを好きになることと、

誰かによって『生き方の閾値』が変わることは

似ているようでまったくちがう。





恋は心を動かすけれど、
閾値を越える出会いは、心の設定を変えてしまう。





もう以前の呼吸には戻れない。
けれど、それは不幸ではない。
呼吸が変わっただけ。
生き方が、ほんの少し本当になっただけ。





彼の世界の中では、
私の存在は「外側」にあるのかもしれない。
それでも、彼の中の秩序が変わった。
そしてそれは、私の中の秩序も変えてしまった。





もうどちらも、

あの頃の『前提』では生きられない。

変わってしまったのではなく、やっと自分になれたような感覚なのです。